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終戦列車―乗客は十三人、定員は十二。誰かを降ろさなければ前へ進めない。  作者: 妙原奇天


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第七話 等価の破り方

 朝は、灰の向こうからやってきた。


 空の色は相変わらず曖昧で、夜との境目が分かりにくい。それでも、列車の中の空気は少しずつ変わっていく。冷え方や、音の響き方や、人のまぶたの重さが、いつの間にか「朝だ」と告げていた。


 凪は、眠りきれなかった頭を振って起き上がる。


 座席の隙間に差し込んでおいた小山田のノートが、まだ胸元にある。ポケットの中の灰も、昨夜と同じ場所にあった。


「起きて」


 肩を軽く叩かれて、顔を上げる。


 朝比奈がそこにいた。髪に付いた煤の粒を払いながら、切符帳を片手に持っている。けれど、その表紙には輪ゴムが巻かれ、使えないように留めてあった。


「ちょっと、話がある」


 彼女の声に、周りの視線が集まる。


「もう一回、“やり方”を決め直したい」


     ◇


「切符をいったん廃止する」


 朝比奈の言葉が、客車の中心に落ちた。


「燃料も、水も、包帯も、時間も、抱っこも、歌も、見張りも。全部“共有”に戻す。私的な蓄えはゼロ。配る順番は、“今ここで必要な順”に限る」


 楽士が眉を上げた。


「明るい朝から急だね。昨日までの苦労はどうなるんだい。切符のおかげで喧嘩も減ったろ」


「減ったわ。でも同時に、心のレートは歪んだ」


 朝比奈は切符帳を持ち上げる。


「この紙一枚で、“寂しさ”や“誰かの隣で寝たい気持ち”が売り買いされるようになった。心を高く買いすぎて、燃料を軽く扱い始めている。等価交換のはずが、いつの間にか心だけが重くなった」


「それは……」


 凪は、胸の奥が少し痛むのを感じた。


 昨夜、抱っこ券が乱高下した光景が浮かぶ。泣き声と切符の枚数が、同じ会話の中で扱われるあの不自然さ。


「このままだと、次の交換で誰かがまた“心ごと”差し出すことになる」


 朝比奈はきっぱりと言った。


「だから切符をやめる。全部を一度、共有に戻す。代わりに、“役割”だけを回す」


「賛成だ」


 御子柴が短く言った。


 場の空気が少し揺れる。


「俺もだ」


 吉良も頷く。


「切符は便利だった。でも、あれは“余裕”があるときの道具だ。今の俺たちには、余裕なんてどこにもない」


 由衣は赤子を抱き直し、一瞬だけ不安げな顔をした。


「でも……切符がないと、お願いしていいのか分からなくなる。抱っこを頼むとき、申し訳なさが……」


「だからこそ、抱っこも“仕事”にする」


 朝比奈が言った。


「仕事でやるから、遠慮はいらない。今、泣き止ませる必要があるなら、それが最優先」


 由衣は少し迷った末、息を吐いて、懐から小さく束ねた切符を取り出した。


「……分かりました。預けます」


 切符束が、朝比奈の手に渡る。


 楽士も、自分の譜面と一緒に切符を共用箱に入れた。


「じゃ、俺の“夜の演奏十分”は、今日からフリーライブってことで」


「フリーっていうより、持ち回りの“仕事”になる」


 老女は、糸と針を箱の隣にそっと置いた。


「針仕事は年寄りの役目だからねえ。呼ばれなくても勝手に縫うよ」


 凪は、見張り表を膝の上に広げた。昨日までの細かなメモと切符のやりとりが書かれている欄を見て、ペンの先で一気に消す。


「いったん、白紙にします」


 深呼吸して、新しい表を引き始める。


「見張りは二時間ごとにローテーション。できない人は、別の仕事を多く受け持つ。抱っこ当番も、歌当番も、夜の話し相手も……全部、“一巡するまで均等”に回します」


「歌当番って」


 楽士が苦笑した。


「音痴も歌うのか」


「音程は問わない」


 吉良が笑う。


「声が出るだけで、肺が動く。健康にいいですよ」


 皆の口元に、わずかに笑いが戻る。


 朝比奈は機関室に張りつく形になった。御子柴の隣で計器を見ながら、小さな黒板に白墨で配線図を描いていく。


「これは?」


 凪が覗き込む。


 黒板にはレバーやバルブ、圧力計といった記号と共に、見慣れないものが混ざっていた。丸で囲まれた数字の“十二”。その横に「単位」という文字。


「終着の認証符号」


 朝比奈は目を細める。


「“十二”。体の数じゃなくて、“勘定の単位”のこと」


「勘定の単位?」


「今は、列車が“人数”で定員を数えている。でも、本当は別の数え方もあるはず。重さで数えるか、持っている名で数えるか、あるいは……共有の何かで数えるか」


 彼女の指が、丸で囲まれた十二を軽く叩く。


「終着に入るためには、“十二”の形を整えろってことだと思う」


「十三人いるのに?」


「だから、どこかを“破る”必要がある」


 等価交換の原則を。


     ◇


 昼前、掲示板が異常な点滅を始めた。


 交換不可

 緊急

 制動系統温度上昇


「ちっ」


 御子柴が悪態をつき、ブレーキレバーに飛びついた。


「凪、水!」


「はい!」


 凪はバケツをひっつかみ、御子柴の指示した位置へ水をかける。熱を持ちすぎた金属がじゅっと音を立て、白い蒸気が立ち上った。


「線路の先、見ろ」


 御子柴に言われて、凪は窓の外を覗く。


 灰の向こうに、古い橋が見えた。


 川をまたいで長く伸びる鋼鉄の弦。支柱は錆びているが、まだ形は残っている。だが、中央部がぽっかりと落ちていた。


「……途切れてる」


「迂回路はない」


 朝比奈が静かに言った。


「地図……いや、線路の癖を読む限り、ここが唯一の渡河点。踏切や支線もない」


「詰み、ってやつか」


 楽士が肩をすくめる。


「落ちていない部分だけ渡って、あとは飛んでくださいって?」


「飛べるならね」


 朝比奈は眉を寄せたまま、橋の手前をじっと見る。


「……ある。可動橋の手前にポイントがある。保守用の側線に切り替えられるスイッチ」


「側線?」


「橋を検査したり、工事用車両を退避させたりするための短い路線。直線じゃなくて曲がっている。枕木も腐ってる。重量制限は……“十二”」


 凪は息を呑んだ。


「十二の……“人”?」


「違う。“単位”」


 朝比奈は黒板に描いた丸で囲まれた十二を指した。


「この数だけ、“勘定”を軽くしろという意味。人を降りろ、じゃない」


「ってことは」


 凪は言葉を探しながら続けた。


「人を降ろさずに済む方法が……ある?」


「あるにはある」


 朝比奈は、しかし首を横に振った。


「等価交換の原則を破るなら、“代わりの等価”が必要になる。誰かを降ろさない代わりに、私たちが自分で自分を軽くするやり方」


「自分で自分を、軽く……」


 凪は、自分の胸に手を当てた。


 ここ数日、積もる一方のものがある。失ったものの名前と、失わせたものの名前。撃たなかった銃。閉じたままの口。見なかったふりをした瞬間。


 それらは、確かに重さになっている気がした。


     ◇


 その夜、列車は橋の手前で停車した。


 風の音が変わる。川面を渡ってきた湿った冷たさが、窓から忍び込む。灰の匂いに、水の匂いが混じった。


 客車の真ん中で、凪は小山田のノートを開く。


 新しいページにペン先を置き、ゆっくりと見出しを書く。


「罪の棚卸し」


 声に出した途端、空気がぴんと張った。


「今まで、“失ったもの”の名前を数えてきました」


 凪は、前に座る皆の顔を見渡す。


「水三壺、包帯二巻、睡眠三時間、抱っこ二回分の肩の痛み。篠目さんの名前、小山田さんの名前……」


 喉が少し詰まる。


「でも、まだ一度も数えてないものがある。俺たちが“持ち続けている重さ”です」


 臆病。見栄。嘘。裏切り。見ないふり。嫉妬。沈黙。


 言葉を並べていくと、肌がチリチリと痛んだ。


「それも、“勘定”の中に含まれているなら……書き出して、列車に見せるべきだと思う。そうすれば、何かが変わるかもしれない」


「罪を、交換に出すってことかい」


 楽士が小さく笑った。


「高く売れるかね?」


「売るんじゃなくて、燃やすんだ」


 御子柴が言った。


「記憶燃焼器、って古い機構がある。床下の投入口から紙を送ると、微量の熱に変えて蒸気の助けにするやつだ」


「燃やして消えるなら、楽な話だね」


 楽士の冗談に、誰も笑わなかった。


 凪は、ノートの行頭に自分の名を書いた。


 ペン先が震える。


「……俺は、撃たなかったことで、他の誰かに撃たせてきた」


 声に出すと、胃のあたりがきゅっと縮む。


「撃てと言われたとき、怖くて撃たなかった。その代わり、隣にいたやつが撃った。撃ったやつは、その後もずっとその血を背負ってた。俺は“撃ってない”って顔で、そいつを見てた」


 沈黙が落ちた。


 由衣が、赤子を抱きしめながら唇を噛む。


「わたしは……“泣き声”を切符にして、人の時間を奪いました」


 ペンを受け取り、震える文字で書きつける。


「この子が泣くのを、“抱っこ券”にした。助けてって言う代わりに、切符に変換して……安心しようとしてた。“ちゃんと払ってるから大丈夫”って。泣いてるのは、この子なのに」


 楽士は、自分の手をじっと見つめた。


「俺は、“慰め”を音に誤魔化した」


 ペンが動く。


「謝るべきときに、演奏した。“ごめん”の代わりに曲を弾いた。“俺はこんなに空気を和らげてるんだ”って、自分を許した。本当は、ちゃんと頭を下げるべきだった」


 吉良も続く。


「……診ないふりをした患者がいます」


「え?」


 皆の視線が集まる。


「ここじゃなくて、もっと前。病院で。忙しさにかまけて、“見て見ぬふり”をした人がいた。大丈夫ですよって軽く言って、深く調べなかった。あとで、あの人は助からなかったと聞いた」


 彼は静かにペンを走らせた。


「それを、自分の中で“戦争のせい”“疲労のせい”にしてきた。ここに来るまで」


 御子柴は、ノートを受け取って短く書いた。


「見捨てた」


 それだけだった。


 それ以上の説明はなかったが、誰も問い詰めなかった。彼の肩の筋肉の硬さと、握られた拳の震えが、その一言以上のことを語っていたからだ。


 最後に、朝比奈がペンを取る。


 しばらく黙っていた。紙の上でペン先が止まったまま、目だけが小さく動く。


「……私は、“終着を知っているふり”をしました」


 書かれた文字を読み上げる。


「本当は、終着なんて見たこともないのに。線路の癖と列車の揺れ方で“何となく”先を予測して、分かったような顔をした。そうして、誰かを安心させた。あるいは、誰かをひっぱった」


 その告白に、客車の空気が少し変わった。


「知っていたのは、癖の読み方だけ」


 朝比奈は続けた。


「でも、癖を集めていけば、ゴールには近づく。そう信じたかった。だから、“知っているふり”を続けた」


 凪は、その言葉に救われた気がした。


 誰も完璧じゃない。誰も、最初から終着を知っているわけじゃない。けれど、この数日の彼女の判断がなければ、列車はとっくに停まっていた。


「……他に、書きたい人は?」


 誰も手を挙げなかった。けれど、その沈黙にも、それぞれの重さがあることを、全員が分かっていた。


 凪はノートを閉じた。


「これを、燃やします」


     ◇


 床下の点検口の隣に、小さな投入口があった。


 金属の蓋を開けると、奥に狭い溝とローラーが見える。そこに紙を差し入れるようになっていた。御子柴が「記憶燃焼器」と呼んでいた古い機構だ。


「大丈夫か」


 楽士が不安げに覗き込む。


「大丈夫かどうかは、やってみなきゃ分からん」


 御子柴は苦笑した。


「ただ、ここに紙を送ると、ほんの少しだけ蒸気圧が上がるように作られてる。昔は“感謝状”とか“功績報告”とかを燃やしてたらしい」


「今燃やすのは、“罪の報告”ですけど」


 凪はノートから該当ページを破る。


 破いた紙を重ね、溝にそっと差し込んだ。


「……行きます」


 紙がローラーに挟まれ、暗い奥に吸い込まれていく。


 数秒後、機関室の方から微かな唸りが聞こえた。計器の針が、ほんのほんの少しだけ右に振れる。


「圧が……上がってる」


 吉良が驚いたように言う。


「気のせいじゃないな」


 御子柴は顔をしかめた。


「こんなもんで橋を渡れるようになるなら、世話ねえが……」


 その時、掲示板が反応した。


 代替価値承認


 白い文字が浮かぶ。


「……代替価値?」


 凪が読み上げる。


「罪が、燃料になった?」


「罪というより、記憶の質量だ」


 吉良が言った。


「この世界では、名も骨も心も、全部重さになる。だったら、記憶だって重さを持つ」


 楽士が苦笑した。


「俺たちのやらかしが、ようやく役に立ったってわけか」


「まだ、足りない」


 朝比奈は計器を見つめ、眉をひそめた。


「橋を渡りきるには、もうひと押し。勘定の単位そのものを変える必要がある」


 その時、老女が立ち上がった。


 孫の手をそっと引く。


「名前、今ここで決めようよ」


 由衣が赤子を抱いたまま、顔を上げる。


「さっき決めた“ひより”じゃ、だめ?」


「いい名だけどねえ」


 老女は微笑んだ。


「でも、今ここで、みんなで呼ぶ名も一つ欲しいんだよ。“これから数え始める名”。“今ここで生まれた勘定”」


 由衣は迷ったように赤子の顔を覗き込み、それから皆を見回した。


「……じゃあ」


 少しだけ迷いを飲み込んで、言う。


「“ひより”は、わたしとこの子だけの呼び名にします。戸籍も名簿も関係ない、家族の名前。今ここで、皆さんと共有する名は……“あさひ”でどうですか」


 朝の陽。


 誰かの名前と少し似ている響きに、全員の視線が朝比奈へ向く。


 当の本人は、くすっと笑った。


「いいと思う。朝は、何度でもやり直せる時間だから」


 老女が頷き、楽士が弦を爪弾く。


「じゃあ、“あさひ”」


 凪が口にした。


 由衣も、兄妹も、吉良も、御子柴も、老女も。


 全員が、一度だけその名を口にした。


 赤子は何も分からない表情で、ただ小さく息を吸い込んだ。


 その瞬間、掲示板がわずかに揺らいだ。


 勘定単位の再設定


 十二の単位が、人の数から、共有の“勘定”へと移る。


「今、どうなった」


 楽士が目を丸くする。


「人数じゃなくて、“十三人全員で守るべき何か”を、十二の単位として見たんでしょう」


 朝比奈が息を吐く。


「“あさひ”って名を、一つの勘定にした。名を放り出すんじゃなくて、分け合う方を選んだ」


「余剰一は……」


 凪が掲示板を見上げた。


 そこに、新しい文字が浮かぶ。


 終着認証準備

 条件一部達成


 御子柴が、手動レバーの封印を半分だけ外す。


「行くぞ」


 レバーを引くと、ポイント切り替え機構がぎしりと鳴いた。


 列車が少し傾き、車輪が別のレールへ移っていく。可動橋の手前、本線から横へそれた細い保守路。


 枕木は腐り、鉄は錆び、レールはところどころ歪んでいる。


「持つのか、これ」


 兄が顔をしかめる。


「持たせる」


 御子柴が短く言った。


「お前たちは、揺れで誰かが飛ばされねえように支えろ」


 列車は、悲鳴を上げる車輪の音と共に、狭い保守路を進み始めた。


     ◇


 橋の下には、水があった。


 灰に濁りながらも、確かに流れている。岸辺には折れた木々と、沈んだ何かの影。列車一両分が落ちれば、そのまま飲み込まれてしまう深さだった。


 保守路は、本線よりわずかに高い位置に付けられている。鉄骨の脇をすり抜けるように走るので、窓の外には錆びた梁が何本も横切った。


「車輪、滑ってます!」


 後尾から兄の声が飛ぶ。


「砂袋!」


 御子柴の指示に、凪と朝比奈が車外に飛び出した。


 足場は狭い。足を滑らせれば、そのまま川へ落ちる。風に混じる水の匂いと、錆びた鉄の匂いが鼻を刺す。


 凪は、砂袋を抱えて車輪の前に撒いていく。細かい砂がレールの上に広がり、金属同士の滑りを少しだけ止めた。


「次!」


 朝比奈が、凪の後ろから次の砂袋を投げ渡す。煤と油で黒くなった彼女の指先が、砂にまみれる。


 保守路は曲がっており、先が見通せない。枕木の一部は欠けていて、そのたび車体がぐらりと揺れた。


「支えて!」


 客車の中から、由衣の声が聞こえる。


 老女が孫と赤子を抱きしめ、兄妹が座席の背を支え、楽士が楽器ケースで棚の荷物を押さえる。


 御子柴の腕は、もはや鉄の一部のようだった。


 レバーは彼の手の延長になり、微妙な力加減で速度を調整する。ブレーキを少しだけ入れ、すぐに緩める。その繰り返しが、ギリギリのバランスで列車を支えていた。


「後ろ!」


 突然、楽士の叫び声が響く。


 黒い波が迫っていた。


 橋のたもとから、四足の影が次々と躍り出る。灰を弾き飛ばしながら、保守路の下を走ったり、梁の上を渡ったりして追いすがってくる。


 吠え声が、風と鉄の音を上書きする。


「またお前らかよ!」


 楽士が悪態をつき、ケースから楽器を抜き取った。


「耳、貸せ!」


 弦を弾く。


 今までで一番高い音だった。


 耳の奥を直接掻き回すような、鋭い高音。獣の耳は人間よりずっと敏感だ。音の束は風に乗り、群れの先頭に突き刺さる。


 先頭を走っていた影が、足をもつれさせて転んだ。後ろから突っ込んできた影と絡まり合い、一瞬だけ列が乱れる。


「その調子!」


 老女が叫ぶ。


 楽士は弦を押さえる位置を変え、さらに高く、さらに不安定な音を重ねた。獣の吠え声が、苛立ちと混乱の色を帯びていく。


 後尾では吉良が火帯を延ばしていた。


 油を染み込ませた布切れに火をつけ、線路脇の枕木に沿って落としていく。勢いよく燃え上がる炎ではない。じわじわと広がる線のような火だ。


「火力は抑えてください!」


 凪が叫ぶ。


「橋に燃え移ったら終わりです!」


「分かってます!」


 吉良は火の勢いを見ながら、油の量を調整した。


 炎は、あくまで「線」のまま。獣が飛び越えるには少しだけ怖く、かわすには少しだけ厄介な高さで燃え続ける。


 保守路の先は、まだ見えない。


 だが、計器は教えてくれる。あと少しで本線に合流するポイントがある。その先は、本来なら終着へ向かう最後の区間だ。


 掲示板が、最後の条件を吐き出した。


 終着認証:十二の“名前”と十二の“重さ”

 余剰一は、列車


「……来たな」


 御子柴が、歯を食いしばる。


「どういう意味だ」


 凪が叫ぶ。


「“十二の名前と十二の重さ”。余剰一が列車って……降ろすのは、人じゃなくて、列車の一部?」


「多分な」


 御子柴は短くうなずいた。


「古い貨車を切り離す。いらねえ部屋を、一両分、橋の手前に置いていく。そうすりゃ、重さの勘定は合う」


「でも、切り離したら……」


 兄が顔を青くする。


「後ろに残った人はどうするんですか」


「誰も残さねえよ」


 御子柴は、当然のように言った。


「空の貨車を切り離す。俺が後ろに行って、連結を外して、足で走って戻る」


「無理です!」


 由衣が叫ぶ。


「そんなことしたら……」


「戻れない可能性が高い」


 吉良も言う。


「橋の上で連結を切ったら、揺れと傾きで、後ろはすぐに落ちます」


「分かってる」


 御子柴は、それでも淡々としていた。


「だから、“可能性”だ。詰みよりはマシだろ」


「ダメです」


 朝比奈が、きっぱりと言った。


「あなたは機関士。レバーはあなたにしか握れない。線路の癖も、圧の具合も、全部体で覚えてる。ここであなたを後ろに行かせたら、本当に全員落ちる」


「じゃあ、誰が行く」


 静寂。


 川の音と、車輪の悲鳴と、獣の吠え声だけが響く。


「……俺が行きます」


 凪は、気づいたら口を開いていた。


「後ろに行って、連結を切って、走って戻る。軍で、列車上の移動は少し教わりました。線路に飛び降りて走ったこともあります」


「ダメ」


 即座に否定したのは、由衣だった。


「あなたがいなくなったら、記録はどうするの。小山田さんから託されたノートは。罪の棚卸しも、名前の棚卸しも、全部途中で途切れる」


「記録は……」


 凪はノートに手を添えた。


「ここまで残せれば、誰かが……」


「“誰かが”なんて言い方、先生と同じだよ」


 由衣の目が赤くなる。


「もう、誰かに押しつけるのはやめて」


 沈黙が長く伸びる。


 赤子が小さく息を吸う音だけが、その間をつないだ。


 やがて、朝比奈が口を開いた。


「もう一つ、方法がある」


 全員の視線が向く。


「私が“名を降ろす”。完全に。勘定から消える」


 朝比奈は、静かに告げた。


「そうすれば、余剰はゼロになる。十二の名前と十二の重さ。列車は十三番目として数えられる。誰も降ろさなくて済む」


「だめだ!」


 凪が叫んだ。


「勘定外は攫われる。“名札”のときに、そう言ったじゃないですか。ルールの保護を受けなくなるって」


「攫われる前に、走り切る」


 朝比奈は目を伏せ、微笑んだ。


「終着まで、そう長くはない。線路の癖がそう言ってる。だったら、“名前がないあいだ”に駆け抜ければいい」


「名前が消えたら、俺たちは……」


 凪は言葉に詰まる。


 朝比奈を、何と呼べばいいのか。


 名前で呼べない人を、人はどうやって心の中に繋ぎ留めればいいのか。


「呼べばいいじゃない」


 老女が言った。


「“あんた”でも、“おねえさん”でも、“そこの鉄道兵”でも。人は、名札がなくても呼べるよ。お役所や軍が困るだけさ」


「でも……」


 凪はまだ首を振る。


「掲示板は、名前を食っていく。勘定外を見つけて、条件にして……」


「だったら、条件より先に走り切る」


 朝比奈の声には、迷いがなかった。


「等価交換を破るって、そういうことだと思う。“ちゃんと払った分だけ受け取る”のをやめて、自分で損を決める。どこまでなら、自分が耐えられるか」


 御子柴は、レバーを握ったまま目を閉じた。


「本当にいいのか」


「よくはない」


 朝比奈は笑った。


「ただ、これが一番“マシ”な破り方だってだけ」


 掲示板が、わずかに明滅した。


 選択待機


 白い文字が、静かに、彼らをせかした。


 列車は、腐った枕木の上をきしりながら進み続ける。


 橋の中央が近づいていた。

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