姫、女王と向き合う
王都の門が見えた瞬間、エリューナ・シィリスの足がふと止まった。
遠くからでも、あの白く高い城壁は変わらず気品と威厳を湛えている。守られるべきものの象徴――幼い頃から見上げてきた、母の城。
(帰ってきちゃった……)
護衛の騎士たちは先に城門をくぐっていく。だが、エリはその場に立ち尽くし、空を仰いだ。
戦いが終わっても、自分の中では何かがまだ終わっていない気がしていた。
“目覚めてしまった記憶”。“前世の人格”。
王女である“あたし”と、元自衛官である“自分”が、まだ混じり切っていない感覚――。
「姫様……?」
心配そうなリフィの声に、我に返る。
エリはゆっくりと微笑み、歩き出した。
◇
「お帰りなさい、エリューナ」
謁見の間には、母――ティリス・シィリス女王が静かに座していた。
透き通るような白銀の長髪。薄紫の瞳。王女である自分にその血が流れていることが信じられないほど、凛とした姿だった。
「報告はおおよそ受けております。まずは身体を清め、少しお休みなさい。正式な報告はそれからにしましょう」
母の声は、いつもと変わらず穏やかで、決して怒っている様子ではなかった。
それなのに、なぜだろう。エリは咄嗟に「ごめんなさい」と言いそうになる。
「……はい。ありがとうございます」
小さく一礼して退出すると、リフィがすでに浴場の支度を整えて待っていた。
◇
湯気の中、エリはじっと目を閉じ、手探りで桶を探していた。
(……どうしよう、目、開けられない)
目を開ければ、当然自分の身体が見える。
けれど、“自分”の中には、あの寛三の意識が確かにいる。
53歳まで男として生きた自衛官が、少女の裸を――。
「無理!恥ずかしいってば!!」
脳内で叫ぶと、すぐにもう一つの声が返ってくる。
『誰が見てんだよ。オレは心の中で腕組んで目ぇ閉じてるわ。』
「……ほんと?」
『ああ。ただひとこと言わせろ。』
間。
『もちっと食ったほうがいいんじゃねえか? そのあばら、少し浮いてんぞ』
「やめてええぇぇぇぇ!」
湯船に飛び込みぶくぶくと沈んだエリは、しばらく赤くなったまま出てこなかった。
けれど、湯に溶ける温もりの中で、不思議と心が静かに落ち着いていく。
(……あたしって、なんなんだろう)
王女である自分。
栗田寛三としての記憶。
過去と現在。心と体。
だけど今はもう、どちらが主で、どちらが従かなんて考えても仕方ない。
“どっちも自分”。それで、いいんだ。
『エリ、おまえがエリとして笑ってりゃ、それで充分だ』
そう、心の中の“教官”が呟くように言った。
◇
謁見の間。
再び膝をついたエリは、ゆっくりと頭を下げる。
「母上。ゴブリンたちの襲撃、村の被害、そして……この国の在り方について、私の言葉で報告いたします」
ティリスは何も言わず、ただ頷いた。
王の顔ではない。母としての目がそこにあった。
エリは語る。自らがどのように行動したか、何を感じたか、そして――“恐怖”ではなく“使命”として、人々を導いたと。
「……そして私は、母上。今、こうしてお話しできることを、心から幸せに思います」
そう言い終えたエリは、深く頭を下げたまま、ひとつ、言葉を搾り出す。
「母上……あたし、もっと強くなりたいです」
しばらく沈黙があった。
その静寂を破ったのは、椅子の軋む音とともに降りてきた温かな手。
ティリスが、娘の頬にそっと触れていた。
「……あなたが、誰であろうと。娘であることに、変わりはありません」
その言葉に、心の奥で何かがほどけた。
エリは、ようやく涙をこぼした。
泣きながら、心の中で小さくつぶやく。
(寛三、ありがと。……あたし、もう大丈夫だから)
心の奥で、教官の声がひとことだけ返した。
『よくやったな、エリ』
その言葉は、王女としてでも、兵士としてでもない。
一人の“エルフ”として生きる彼女に贈られた、最高の勲章だった。
夜。
エリは久しぶりの自室で、ひとり寝台に腰掛けていた。
豪奢な刺繍のかかった寝具も、磨き込まれた木の家具も、見慣れたはずなのに、どこか“懐かしさ”を感じる。まるで、何年も離れていた場所に帰ってきたような感覚。
窓から入る月明かりをぼんやり眺めながら、ふと呟く。
「さっきは……ありがとね、寛三」
返事はない。けれど、心のどこかに確かに“気配”を感じる。
それはもう、“乗っ取られている”とか“二重人格”なんて言葉ではなく、隣にいてくれる、頼れる祖父のような存在。
その温もりを感じながら、エリはぽそっと口を開いた。
「……っていうかさ」
「寛三、あんた死んだのって53歳でしょ?」
「……あたし、今、人族年齢にしても17くらいだけどさ、エルフとしては55歳なんだよね」
「……あれ?」
「年、そんなに変わんなくない?」
「ってことはさ……」
エリは、そこで枕に顔を突っ伏した。
「――同年代男子と風呂入っちゃったじゃん!!!」
部屋の中に響く、くぐもった悲鳴。
心の中で、『同年代ってか、そういやそうだな!』と寛三が笑い、さらに顔を赤くして布団にもぐり込む。
「うぅ……寛三のばかぁ……っ」
でも、どこか――くすぐったくて、あたたかい夜だった。