姫、“自分”を探す
朝、村の空はうっすらと霞がかかっていた。
燃え残った焚き火の匂いと、土の湿り気の混ざった空気の中、エリューナ・シィリスはゆっくりと目を覚ました。
部屋の隅では、リフィが静かに洗面の支度をしている。布で顔を拭きながら、ふと、エリが気づく。
――あれ、今日……少し身体が重いかも。
額の包帯は昨夜よりもきつく巻かれていて、まだ痛みは残っていた。だが、それよりも――心の奥底に、別の“ざわめき”があった。
「おはようございます、姫様。今日は無理なさらず……」
「……うん。ありがとう」
そう返した声に、少しだけ間が空いた。
自分の声なのに、どこか遠くの誰かがしゃべっているような違和感。言葉の奥に“もう一人の声”が微かに混ざっていた。
外に出れば、すぐに子どもたちに囲まれた。
「姫様!」「昨日の斧、すっごかった!」「オレも将来あんな風に!」
無邪気な声。真っすぐな瞳。泥だらけの顔。
その全てが、“王女”としての自分を称えてくれる。
――けど、これって、本当に“あたし”なんだろうか?
その夜、ひとり寝床に戻ったエリは、荷物の奥から物心ついた時からそばにある一つの小袋を取り出した。
緑と茶色の迷彩柄――こんな布地の模様は王都でも見かけない。「ここ」に存在しない模様。かつて“栗田寛三”として生きていたときの、最後まで身につけていたものと同じ模様。
中には、くすんだ2枚の銀色のプレート。片方は欠けていて、もう片方には「KURITA KANZO」と小さく刻まれている。自衛隊時代の認識票。
今までだって何度だって見た。……読めなかったけど。
だけど今ならわかる。
そして、その下に――小さく畳まれた一枚の手紙があった。
『栗田班長へ
きっと栗田班長は天国に行っても、生意気な新入りを見つけては教育を施しているのでしょう。
あの日、あの瞬間、班長が身を挺してくれたおかげで、我々に損害は出ませんでした。
本当にありがとうございます。そして、すみませんでした。
僕も、いつかはそちらに参りますので、その際はご指導をお願いします。
首を洗ってその時を待っております。
川原』
この世界のものとは違う世界の文字。日本語。
その文字を目で追った瞬間――エリの視界が滲んだ。
胸が、痛いほど熱くなった。
「川原……無事でやってんのか」
ふと、口をついて出たのは、明らかに“あたし”の声じゃなかった。
――“自分”の声だった。かつての、栗田寛三の。
思い出す。25年前の、山中行軍。泣き出した川原。背負った荷物。あの日の言葉。
『……限界ってか、なら今すぐ死ぬんか?』
その瞬間に芽生えた何かが、きっと川原の中で生きて、それがやがて、手紙という形で戻ってきた。
エリは包みをそっと握りしめ、寝台の横にある鏡に目をやる。
そこには、碧色の瞳に、艶やかな金の髪を持つ、若い少女の姿。
けれど――その奥に、確かに“誰か”がいる気がした。
「……あたしって、誰?」
そう呟いた瞬間、頭の中に響いた声。
『誰でもいいさ。エリ、おまえがエリとして笑ってりゃ、それで充分だ』
――うん。
涙がつっと流れた。
“あたし”は、もう栗田寛三じゃない。だけど、彼の心は、今もここにいる。
守りたいと思う気持ちも、人を助けたいという本能も、きっと――“本物”だ。
……と、そこまで考えたとき。
ふと、寝台の脇に置かれた水桶に、ぼんやりと映った泥で汚れた作業着を脱ぎ、肌着姿の自分の姿を見て、エリははっとする。
「あっ……あたし、下着……! いや、ちょっと……!」
両頬がみるみる赤くなり、胸をぎゅっと抱きしめる。
――やば。おじさんだったのに、今は女の子じゃん。
そして、聞こえてくるもう一つの声。
『そんなちんちくりん、見ても何とも思わねぇよ!』
「う、うっさいよ!!」
エリは思わず布団を頭からかぶった。
それでも、くすっと笑いながら。
“あたし”は、たぶん、エリューナ・シィリス。
でも、ちょっとだけ――元鬼軍曹・栗田寛三。
そんな二人で、これからも一緒に、生きていく。