姫、思い出す
エリューナ・シィリスが倒れた夜、村の広場に不自然な静けさが戻っていた。
仄暗い空に、煙が漂っている。消えかけたたいまつの火に照らされながら、少女は微動だにせず横たわっていた。
侍女リフィがその傍らで、泣きながら額を拭いている。
「……大丈夫、大丈夫ですからね、姫様……」
だが、その瞼の裏側――意識の奥深くでは、まったく異なる世界が広がっていた。
――そこは、草原だった。
乾いた風が迷彩服をなびかせ、土埃と油の匂いが鼻を突く。遠くでエンジン音が鳴り、誰かの号令が飛ぶ。
「ああ……実爆訓練か」
夢の中で、彼は知っていた。
これは、かつての自分が生きた“現実”。
陸曹長、栗田寛三――通称、鬼栗田。彼の記憶が、ゆっくりと蘇っていく。
「栗田班長、よろしくお願いします」
「おう。ってか、班長はやめろと何度も言っておるだろうが」
「……自分にとっては栗田曹長は、ずっと班長ですよ」
相手は、若い男だった。鋭さと誠実さを併せ持った顔。かつての訓練班のひとり――川原。
彼との付き合いは長い。初めて会ったのは、もう二十五年前になる。
――新隊員教育の真っ最中、雨の日の山中行軍。
五人一組の訓練班のうち、川原は地面にへたりこみ、涙を浮かべていた。
地はぬかるみ、脚は痙攣し、腹は減り、装備は倍以上の重さに感じられる。
『ムリですッ!もう限界です!なんでこんなことを!』
あのとき、オレは怒鳴らなかった。
しゃがみ込み、川原の目を見て言った。
『限界ってか、なら今すぐ死ぬんか?ボケ。テメエの身体はまだ弱音を吐く元気あるじゃぁねえか?限界なんてやつは死ぬ半歩前にあるもんだとオレは思うがな。……テメエの心が、テメエの身体を一番先に裏切ってたら世話ねえや。まずは、ありもしねえ限界なんて感じちまうその弱い心をどうにかしねえとな』
そして、彼の荷物を黙って背負って歩いた。
――それが、川原との始まりだった。
「ピン抜け!……投げ!」
現在に戻る。草原での手榴弾訓練。
川原は安全ピンを抜き、後方から投げの姿勢に入る――が。
手が滑った。手榴弾が後方へ転がる。
「っ!」
誰よりも早く、オレは駆け出していた。
転がる手榴弾。すでに安全レバーは外れ、起爆の猶予はあと数秒。
拾って投げるか?空中爆発の可能性。放るには距離が近すぎる。
この数秒の思考を経て、オレは決めた。
――壁になる。
それが、一番確実で、他を守れる選択。
「川原、成長したな……ってか、あの時と変わってねえか……」
オレは、最後にひとりごちた。
そして、手榴弾に覆いかぶさるように飛び込んだ。
――瞬間、世界が白く染まり、音が消えた。
それが、栗田寛三の最期だった。
――静寂のなかで、ふと意識が浮上していく。
焚き火のような光。揺れる影。泣き声。
(……誰かが……オレを……)
少女の意識が、徐々に現実に戻っていく。
リフィの涙。騎士たちの呼びかけ。村人たちの祈り。
そのすべてが、彼女の意識に降り注ぎ――
「……オレは……栗田……寛三……」
呟きが、唇から漏れた。
「姫様っ!? いま、何と……」
リフィの問いに、エリ――いや、寛三は、困惑するように頭を押さえた。
「あたし……いや、自分は……?」
ふらつく身体を起こそうとして、すぐに額を押さえた。そこには冷たい布が当てられていた。
「姫様っ……!」
泣きはらした目で、リフィが駆け寄る。
「よかった……本当によかったです……! 気がつかれて……!」
その声に、エリはぎこちなく笑みを浮かべた。
「……ごめん、心配かけた、な」
口から出たのは、どこか男っぽい、聞き慣れない口調。
リフィは一瞬きょとんとしたが、すぐに微笑んだ。
「ええ……でも、もう少しだけ“姫様らしく”お願いします。驚きましたよ、今の言い方」
「……あたし、ちょっと、混乱してるかも」
そう呟いたエリの瞳には、深い戸惑いがあった。
その場には、騎士のミルドとガランも控えていた。
ミルドが顔をしかめながら言う。
「姫様、申し訳ありません……俺たちの警戒が甘く、生き残りのゴブリンを見落として……!」
「いや、いいんだ。誰も死ななかった。それだけで、充分さ」
エリがそう返した瞬間、また奇妙な静けさが走った。
その言葉もまた、王女のものというよりは、“何か別の存在”の響きを帯びていた。
ガランが小声で囁く。
「……まるで、戦地帰りの兵士みたいな物言いだな」
ミルドも、こくりと頷いた。
一方、リフィは目を伏せたまま、静かに手を握った。
「姫様、何があったんですか……? 夢を見たような、そんな顔をされています」
エリはしばらく何も言わず、ゆっくりと目を閉じた。
「あたしは……夢の中で、自分が別の誰かだった気がする。名前も、服も、全部違ってて、でも確かに“オレ”だった」
「……“オレ”?」
「うん……変だよね。でも、その人のこと、全然嫌じゃない。怖くもない。むしろ、懐かしい。大事な誰かの気がする……」
リフィは何も言わず、ただその手を包み込むように握り返した。
やがて、エリは自分の手を見つめながら、小さく呟いた。
「ねえ、リフィ。もし……自分の中に“誰か別の人間”がいたら、リフィはどう思う?」
「……それでも、私は姫様を姫様としてお仕えします」
即答だった。
「だって、誰がどう言おうと、あなたは“私たちを守ってくれた”お方ですから」
その言葉に、エリの心はじわりとあたたかくなる。
――きっと、自分はもう一人じゃない。
たとえ自分の中に、別の記憶が芽吹こうとも。
この世界での名は、エリューナ・シィリス。
そして、守るべき者たちがいる。
焚き火の明かりが再び灯されるころ、エリはゆっくりと立ち上がった。
その背中は、王女と軍人――ふたつの魂を抱えた者のものだった。