姫、過剰準備で村を救う
深夜の村に、虫の声すら途絶える静寂が訪れていた。
星明かりのもと、村の周囲には不自然な木組みと枝葉が点在していた。倒木を利用した遮蔽、狭められた動線、そして見えない落とし穴。
すべては、ひとりの姫の指示によって築かれた迎撃用防御陣地――“想定済みの奇襲”に備えた罠だった。
村人たちは戸口に戸板を打ち付け、油壺や石つぶてを準備しながら、ひそひそと不安の声を交わしていた。
「本当に来るのか……? ゴブリンなんて、昼にやっつけたばかりなんだろう……?」
「でも、あの姫様が“また来る”って……。なんだか、信じてしまうんだよな……」
怯えた声。ざわめき。だが、それでも彼らの目には、一筋の希望が灯っていた。
それは、村の広場の中央に立つ、ひとりの少女――
エリューナ・シィリス。
斧を背に負い、足元には乾いた土。顔には土埃と汗。なのにその姿は、不思議な威厳をまとっていた。
「……くるよ」
誰にともなく、ぽつりと呟いたその瞬間。
森の奥――暗闇の彼方から、低いうなり声が響いた。
「ギィ……ギアァァッ!」
ゴブリンの咆哮。
次いで、土を蹴る音。木々をかき分ける音。無数の足音が村に向かって殺到してくる。
「来た! 東からゴブリン50以上、全周警戒!」
エリの声が鋭く響く。声色は“王女”ではなかった。“軍人”のそれだった。
「防御線、一番東、罠起動準備! 投石部隊は遮蔽の後ろ!」
「ひ、姫様、どうか無理はなさらず……!」と侍女リフィが叫ぶが、エリは静かに首を振る。
「私が前に出た方が、戦いやすい。彼らは“指揮”に弱い。統率を崩せば、数がいても怖くない」
その冷静さに、リフィは言葉を失った。
奇襲を仕掛けてきたゴブリンたちは、村の入り口でいきなり足を取られ、次々と落とし穴に落ちていく。
「ギャア!?」「アググ!?」
棘付きの棒を構えていた者も、勢いのまま転倒し、下から突き上げる杭に喉を貫かれる。
「よし、第一罠成功。遮蔽陣地へ移動、投石に備えて!」
エリは素早く身を屈め、遮蔽の影に身を滑らせた。斧の柄を手に取り、息を整える。
「騎士隊、弓射準備。第一矢は“合図に合わせて”一斉射!」
「りょ、了解っす!」
もはやミルドもガランも、姫の指示を“号令”として完全に受け入れていた。
遮蔽に身を潜めるエリの耳には、ゴブリンたちの混乱した叫びが鮮明に届く。
「ギャアアッ!? オチタ! ヒトノアナダ!」
「マエ、ススム! マエエエ!」
隊列が乱れ、次々と遮蔽の間へ突っ込んでくるゴブリンたち。
そこへ――
「今!」
エリの合図で、矢の雨が降った。音もなく放たれた矢が、敵前列のゴブリンを次々と穿つ。
「ギャアッ!?」「ドウシテ、シヌ!?」
前列が崩れたことで、後方の者たちは慌てて足を止め、逃げ場を探して左右に分かれる。
「今のうちに、中央突破!」
エリが跳んだ。
火口で灯したたいまつを地面に投げ捨て、斧を片手にゴブリンたちのど真ん中に飛び込んでいく。
その動きはまさに“訓練された兵士”そのものだった。
斧は真横に薙がれ、一撃で二体のゴブリンの胴を切り裂く。
「ギィアアッ!?」「ウゴゴ……ウソ……」
パニックに陥ったゴブリンたちは、罠を避けることもできず、逃げ場を失って次々と倒れていく。
「姫様、一人で前に……っ!」「援護します!」
ミルドとガランが叫び、剣を抜いて戦線に合流する。
彼らの視界に映るエリは、泥だらけになりながらも、まったく動揺を見せない。むしろ、その瞳は澄んでいた。
「後衛から、投石! リフィ、着火済みの松明を三本投げて!」
「えっ、えっ!? はいっ! ……って、なぜ松明が“着火済み”で三本も!? いつの間に!?」
「準備は大事だからねっ!」
返ってきた声は、軽快ですらあった。
村人たちは最初こそおののいていたが、姫の号令のもと動き始めると、徐々に“戦力”として連携を見せ始めた。
それは、まるで一つの小隊。
火の粉と怒号、斧と叫び声が交錯するなか――
戦いは、一時間もかからずに終わった。
第二波のゴブリン集団は壊滅。罠に嵌まり、遮蔽を越えられず、姫の斧に斬られ、騎士の剣に倒れた。
村の被害――なし。負傷者――なし。
夜が明けて、朝日が差し込むころ。
村の広場に、村人たちがひとり、またひとりと集まり始めた。
泥にまみれたエリが、斧の刃を布で拭っているその姿を見て、誰かがぽつりとつぶやいた。
「……あの姫様が、俺たちを守ってくれたんだな」
「信じられん……王都から来た王女様が、斧持って、泥まみれで、罠掘って……」
「……いや、俺たちはもう……この人を“お飾り”なんて呼べねぇよ」
そして、村長が膝をつき、深々と頭を垂れた。
「我らが姫様――エリューナ様に、心よりの感謝を」
続いて、村人全員がその場に膝をつき、一斉に頭を下げる。
それは感謝であり、敬意であり、そして――忠誠の形だった。
エリは戸惑ったように立ち尽くし、やがて、くしゃりと笑った。
「うん、よかった。準備しといて」
そして、おもむろにひと言。
「準備八割、って言うでしょ?」
そのズレたひと言に、誰もが笑った。
でも、誰もが知っていた。
この王女は、只者ではない。
――その瞬間だった。
「アノメスガ……ナカマタチヲ……ッ!」
どこかから、かすれた声が響いた。
ガランが眉をひそめる。
「……!? 生き残り……っ!」
木陰の一角、落とし穴の陰に隠れていた一匹のゴブリンが、最後の力を振り絞ってスリングを振り抜いた。
小石が空を裂くように飛ぶ。
「姫様っ――!」
誰かの叫びよりも早く、
ゴンッ!
硬い音とともに、石がエリの額を直撃した。
少女の身体が、ふわりとよろめき、崩れる。
「姫様―――!!」
ミルドが駆け出すと同時に、ガランが剣を抜いた。
「……ッこの野郎っ!!」
落とし穴から這い出しかけたそのゴブリンに、剣が一閃。斬撃とともに血しぶきが散った。
静寂が戻る。
焦げた木の匂いと、立ちのぼる煙の中で、エリューナは静かに横たわっていた。
リフィが悲鳴を上げ、村人たちが駆け寄る。
「姫様……!」
「うそ……どうして……!姫様!目を開けて下さい……!」
騎士たちは即座に応急手当の準備をし、リフィは震える手で布を濡らし額を冷やす。
エリは、かすかに眉をひそめながらも――眠るように、意識を失っていた。