姫、謎の言葉と回想に立ちすくむ
陽が傾き、森の木々が橙に染まりはじめたころ、エリューナ・シィリスたちは村へと帰還していた。数時間前に斥候のゴブリンを追跡した結果、十五体もの集団を殲滅したばかりとは思えないほど、彼女の歩みは軽快だった。
だが、村の中央にある広場に戻るや否や、彼女を出迎えた侍女リフィの声が爆発した。
「姫様ぁぁぁあっ! なんで、なんでまたそんな! 泥だらけじゃありませんかっ!」
「えっ、そう? でもほら、無事だよ?」
「“無事”の定義が違いますぅぅ! あとその荷物、増えてません!? ……え、え、焚き火跡の灰!? 何に使うんですか!?」
「火口の研究。あと、ゴブリンの棍棒、素材に面白いのあったから……あ、でも臭いかも」
「そんなものを、なぜ……?」
限界を迎えたリフィが顔を覆うのと同時に、護衛騎士のミルドが軽く咳払いをした。
「姫様。村長と、数名の村人には事の顛末を伝えました。夜も遅くなりますので、今宵はここで一泊を」
「うん。いい判断だね。ここの宿舎、床が平らで好き」
「……他に褒めるとこないんですか」
騎士の一人が肩を落としながら呟いた。
そして、話は自然と作戦後の振り返りへと移っていく。
「それにしても……あの戦い。姫様の指揮、やっぱり普通じゃなかったです」
「正直、軍学校の講師かと思いましたよ。三方包囲に挟撃、射線管理に遮蔽の利用……」
「いえ、もう“オーガ軍曹”とか、そういうノリで……」
リフィがぎょっとして騎士たちを見る。
「な、何の話ですか? 姫様が軍の指導なんて……まさか、実戦経験でも?」
「いや、それが“不思議と身体が動く”って……。でも、あれは、ただの素人の動きじゃありませんでした」
エリは、焚き火の準備を進めているふりをしながら、その会話を遠く聞いていた。
薪を組み、火打石を打ち、火がぱちりと灯る。
夕闇が迫る森に、橙色の火が揺れる。
彼女は、その炎を見つめながら、ひとりごちた。
「……普通じゃ、ない。か。たしかに、そうなのかも」
手を伸ばし、炎の熱を掌で感じる。
ふと、手首の動きが止まる。
(あたし……“あの動き”、どこで覚えたんだろう)
立ち木を利用した遮蔽移動。射線の確保。敵意の位置取りを誘導するための声のタイミング――
どれも“自然に”やっていた。でも、どこかで“身につけた”記憶はない。
(……前に、誰かに教わった? 誰に? いつ?)
手が震えた。握りしめた小枝がぽきりと折れる。
炎が揺らいだその瞬間、脳裏に閃光のように映像がよぎる。
――土の匂い。整列する兵士。迷彩服。鉄の棒を振るう自分。叫び声。
「隊列を崩すな! 脚で稼げ! 撤退地点まで後退! 全周警戒!」
(……なに、これ……?)
言葉の意味がわからない。でも、音として、身体に沁み込んでいる。
「レンジャー行動を思い出せっ!」
(レンジャー? ……って、誰?)
彼女の目に、焚き火の炎が映る。
橙ではなく、かつて見たこともない人工的な白色の光。夜の訓練。
その瞬間――
心の奥底から、男の声が響いた。
《自分は陸曹長、栗田寛三――》
「……くりた、かんぞう?」
エリの唇が、勝手に名前を呼んだ。
鼓動が速まる。
「栗田……寛三……? 誰? 誰なの、あたし……?」
思わず立ち上がる。目の前の焚き火が、まるで訓練場の篝火のように見える。
身体が自然に構えを取る。無意識の防御姿勢。警戒線を張る感覚。
だが、そこには誰もいない。ただ静かに燃える火と、夜の虫の声だけがある。
(あたし、なんで……戦い方なんて知ってるんだろう)
手のひらに残る火打石の感触。革手袋の締まり。筋肉の重み。
すべてが、誰かの記憶に裏打ちされているような――
「エリューナ姫、そろそろお休みに……」
リフィの声が後ろから届く。
エリは振り返り、いつもの笑顔を作る。
「うん、行こうか」
だがその背中は、どこか別の記憶と、自分の中に芽吹き始めた“誰か”の存在に揺れていた。