姫、薪のついでにゴブリンと出会う
「……三日前、ですか」
エリューナ・シィリスは薪を抱えたまま、村の広場で話を聞いていた。地面には斧と手斧が立てかけられ、周囲には木を割ったばかりの薪が整然と積み上げられている。
ここはエルフ王国の首都――とはいっても人口二百名足らずの王都から半日の距離にある、小さな村のひとつ。王都の周囲にはこのような村々が点在し、どれも森と川の恵みに支えられながら、穏やかに暮らしている。
森の木々に囲まれたこの村は、数十戸の木造の家が寄り添うように建ち、広場の中心には共同の井戸と古びた祭壇がある。村人たちは質素ながらも整った暮らしを営んでおり、エリは日ごろからこうした集落を巡っては困りごとを聞き、できる範囲で手助けをしてきた。
話の相手は、この村の木こり頭、ミルザ老。白髪まじりの髭と大きな手を持つ働き者で、エリが幼いころから何度も教えを受けてきた人物だ。
「おう。わしが森に入った時のことじゃった。ちょっと奥のあたりで、黒ずくめの小さい影を見てな……」
「ゴブリン、ですね」
即答するエリに、周囲の村人たちは眉をひそめた。
「やめてくださいよ姫様、そんな冗談みたいに」
「えー? 本当に冗談だと思ってる? ……ま、まだ実害はないってことかな」
エリはそう言いながら、肩に担いだ薪をゆっくり地面に下ろす。だが、その目の奥にはいつもの明るさとは別の色が宿っていた。
「……それで、ミルザさん。ぎっくり腰は?」
「そ、それは……その、影を見たとたん背中がピキッとなってのぅ……」
「……うん。つまり、びっくり腰、だね!」
「うう……」
ミルザの肩が小さく震えたが、エリは笑顔で親指を立てる。周囲の村人たちにも冗談交じりに話し、場の空気を和らげていた。が、その一方で、彼女の思考は違う場所を巡っていた。
(森の奥……まだ雪が降るには早いけど、今のうちに薪を確保しなきゃ。ストックの量からして、あと百束は必要。ミルザさんが動けない今、原木を誰が切るのかって話になると――)
「よし、森行こうか」
「……はい?」
「このままじゃ冬の寒さで凍えるよ? 準備八割、って言うでしょ? 準備しとけば本番ではあと二割頑張るだけでいいんだから!」
また出た、と侍女のリフィがそっと耳を塞いだ。
森の木立の間を、斧を抱えた姫が軽やかに進んでいく。彼女の後ろには、三人の護衛騎士が小声で相談していた。
「……やっぱり薪作りなんて、姫様にやらせることじゃないと思うのだが」
「とはいえ、止めたら今度は“自主鍛錬”とか言って夜に出て行かれる。あれはあれで危険だ」
「はぁ……それにしても、“ゴブリン”って、言うほど大した脅威じゃないだろう。小さいし、道具も碌に使えない。今ごろ木の実でも齧ってんじゃないの?」
それを聞いたエリは、足を止めた。振り返ると、いつもの笑顔だった。
「油断、だめだよー? 小さいけど、かじられたらやっぱり痛いし」
「姫様……それはさすがに……」
「まぁ、念のため、ね?」
その“念のため”が過剰装備の山であることを、彼らは知っていた。
斧を振るう音が森に響く。乾いた木が裂ける音とともに、太い木が地面に転がる。
「姫様、ここは私が……」
「いやいや、慣れてるから。はい、手斧!」
言いながらエリが差し出した枝打ち用の手斧は、革の巻かれたグリップに手入れされた刃が輝いていた。
「さすがに斧を三丁も持ってきた王女は、過去にいないと思います」
「斧は使ってこそ価値がある!それに、用途が違うんだから!」
そのときだった。
木立の奥、静かに踏みしめるような音が一つ――
エリの耳が動いた。左後方から、わずかな気配。
「っ――!」
彼女は手斧をくるりと回して、後方の茂みへ向かって投擲した。
「姫様!?」
短い金属音と、甲高い悲鳴。騎士が振り返ると、そこには体格の小さい緑の影が、手斧を肩に受けてうずくまっていた。
「ゴブリン!? ど、どうして背後に!?」
「来てたよ、さっきから。でもあえて動かなかったみたい。たぶん、私たちの様子をうかがってた」
エリは木に手を添えて言う。
「……くそっ、仕留め損ねた!」
騎士が剣を抜いて駆け寄ろうとしたそのとき――
突如、草の向こうからさらに二匹のゴブリンが現れた。彼らは躊躇なく手負いの仲間を置き去りにして、森の奥へと逃げていく。
「……置いていった、か」
「追います!」
そう言って駆け出そうとする騎士に、エリが言った。
「ちょっと待って。あの手負いの子、使えるかも」
「使える、とは?」
「逃げた奴ら、どこに向かうか気になるよね。なら、追わせましょ。案内役として」
「しかし、逃げられ――」
「……そのために“気配を消す”んだよ」
エリは静かに森に身を沈めた。背を低くし、足の運びを変える。
風にまぎれるような足音。葉の揺れをかき消すような動き。
その動きは“訓練された軍人”のそれだった。
「……姫様?」
騎士たちは声をかけることもできず、ただその背を見送る。
エリの瞳には、いつもの柔らかさがなかった。
気づけば、森の奥へと足を運んでいる。
まるで――
「戦場に入る人間の目、だ……」
そう、誰かが呟いた