第9話 魔女の呪い
「氷心症!?」
森の中で野盗に襲われた彼らは、その日、野宿を強いられることになった。日が沈むまでに例の丸太をどかすことができなかったからだ。
ちなみに、野盗たちは早々に町へ向かって引っ立てられていった。助けてくれた兵士は公爵家の私兵なので、警察に引き渡す必要があるのだという。
その場には兵士の半分が残って丸太をどかし、次の町まで護衛してくれる段取りになっている。
なぜかマシューもその場に残ることになったので気まずい雰囲気が流れはしたが、乗客たちは二人の関係に言及するようなことはしなかった。興味がないわけではない、という様子ではあったが、アイリスに気をつかってくれているらしかった。
兵士たちは黙々と働き、日が沈む前に乗客の分もテントを張り、火をおこして食事を準備してくれた。
妙な連帯感の生まれた乗客たちは肩を寄せ合って一つの焚火を囲み、酒もごちそうもないが宴会のような雰囲気で楽しく笑い合いながら食事をした。
アイリスは輪の外に出ようとしたのだが、他の乗客の手によって半ば無理やり輪の中に引き込まれてしまった。
ただ無表情で彼らの話に耳を傾けるだけのアイリスを、彼らはもう空気のように扱ったりはしなかった。
そんな食事の最中に、ふと誰かがアイリスに旅の目的を尋ねたのだ。
アイリスは離縁のことは伏せて、『氷心症』を患ったこと、そして魔女の呪いを解きたいのだということを話した。
それを聞いた乗客たちが、いっせいに目を剥いて驚きをあらわにした、というわけだ。
「そういうことは先に言いなさいよ」
赤ん坊を抱いた女性が唸るように言った。
次いで、アイリスの身体にギュッと抱き着く。すると、別の乗客が自分の毛布をアイリスの肩にかぶせてくれた。また別の乗客が、彼女の膝に毛布をかける。
「とにかく、あったかくしないとね」
そう言いながら、女性がアイリスの肩や腕を優しく撫でてくれるので、身体も心も温かくなった。
だが、それでもアイリスは上手く感謝を口にすることができず、しゅんと肩を落とした。
その様子を見た乗客の一人が、メガネをくいっと上げてアイリスの顔をじっと見つめた。
「……氷の魔女の呪いの影響が強いのかもしれませんね」
「え?」
メガネの乗客は、懐から手帳を取り出した。手帳にはびっしりとメモが書いてある。どうやら彼は学者のようだ。
「『氷心症』の患者の中には、心臓以外にも症状が出る場合がある、という話をどこかで……。あ、あった」
メガネの乗客はパラパラと手帳をめくり、あるページで手を止めた。
「幼少期から手足が氷のように固まっていた少年が二十歳になって『氷心症』を発症した、という例が報告されています。ただし、手足の硬直と『氷心症』との間に関連があったかどうかは不明だ、と。当時の医学雑誌の片隅に報告が載っていました」
彼は手帳からその雑誌の切り抜きを取り出して、アイリスに渡してくれた。
「『魔女の呪いの影響が強く出た結果、心臓に症状が出るよりも早くから他の部位で症状を呈するのではないか』、と書かれていますね。それ以降は症例がなく、研究は進まなかったみたいですが」
アイリスはその雑誌の切り抜きを凝視したまま固まってしまった。
まさか。
笑うこともなくこともできず、自分の気持ちを口にすることも感謝の言葉を伝えることもできないのは、そもそも魔女の呪いが原因だったかもしれない、とは。
そんなことは思ってもみなかったのだ。
「あくまでも可能性ですが」
メガネの乗客が補足する。だが、アイリスには可能性で十分だった。
(呪いを解くことができれば……)
命が助かるだけではない。まともな人間になれるかもしれない、ということだ。
切り抜きを凝視するアイリスを、女性が再び強く抱きしめた。
「きっとできるよ。あんたなら」
女性の腕の中で、赤ん坊がアイリスの髪に手を伸ばした。プラチナブロンドの髪を追いかけてパタパタと腕を動かしながら、うれしそうにキャッキャと声を上げて笑う。
その様子に、また、アイリスの胸が温かくなった。
「あんたは優しくて勇気がある。だからきっと、魔女の呪いなんかに、あんたは負けない」
力強い言葉に、アイリスは確と頷いた。
マシューは黙って彼らの話に耳を傾けていた。
そして、二人がこの件についてまともに話ができたのは、翌日の夜になってからのことだった。
* * *
翌日、乗客を乗せた馬車は順調に進み、昼過ぎには次の町に到着した。
乗客たちはそこで解散し、それぞれの目的地へ向かっていった。何人かの乗客はアイリスに住所の書かれたメモを渡し、『いつか訪ねてくれ』と言いながら名残惜しそうに別れて行った。
赤ん坊を抱いた女性も、アイリスに住所と名前の書いたメモを渡し、『手紙を送って。必ずよ』そう念押しをした。町には彼女の夫が迎えに来ていて、三人の親子は仲良さそうに荷馬車に揺られながら、山の向こうへ帰っていった。
彼らの見送りを終えると、マシューと兵士たち、そしてアイリスが残された。
乗客たちが一緒の間には感じなかった気まずさが、彼らの間に広がる。
「……」
「……」
アイリスもマシューも、互いに何から切り出せばいいのか分からず、二人の間に沈黙だけが流れる。
「……まずは、宿に入りましょう」
さすがに見かねた兵士の一人が、そう促してくれるまで、二人は何も言えず立ち尽くすしかできなかったのだった。
北部の辺境なので貴族用の宿というわけにはいかなかったが、その晩、アイリスは久しぶりに温かい湯を使って入浴することができた。従業員に手伝ってもらって、髪の手入れもできたし、服も下着も洗濯することができた。
部屋に戻ったアイリスは、宿で借りたブラシを使って毛皮のコートの埃を落としにかかった。なかなか無茶な旅をしているのでそれなりに汚れはついているが、この程度ならきちんと手入れをすれば問題ない。
そうしていると、コンコン、と控えめなノックの音が響いた。
「はい」
返事をすると、ドアの向こうの気配が戸惑うのが分かった。ゆっくりとドアが開くと、そこにいたのはアイリスと同じく入浴を終えて楽な服に着替えたマシューだった。
「……少し、話せるか?」
おずおずと尋ねるマシューに、アイリスは小さく頷いた。




