第8話 夫でもないのに
アイリスの元にマシューが手配した宝石商がやって来たのは、結婚式の数か月前だった。
『公爵様から、どれでも好きなものをお選びください、と仰せつかっております』
と言って並べて見せてくれた宝石の中に、あのブルーダイヤモンドがあった。
最初は他の、もっと安価な宝石を選ぶつもりだった。
いくら公爵家とはいえ、財産は無限ではないのだから。結婚指輪に、屋敷の一つも買えてしまうような高価な値段の宝石を選ぶことはないと思った。
ところが、咄嗟にブルーダイヤモンドに目を奪われたアイリスの表情に、目ざとい宝石商はすぐに気づいてしまったのだ。
そして、宝石商はにこりと微笑んだ。
『こちらのブルーダイヤモンドは、公爵様もお気に召していらっしゃいました。奥様の瞳と同じ色だ、と』
そうして、あれよあれよという間にこの宝石で結婚指輪がつくられ、アイリスのもとに届けられてしまった。
結婚してからも、公爵はアイリスに度々贈り物をしてくれた。
もちろん、夫の義務として、だ。
だが、アイリスの意見を尋ねてくれたのは、この宝石が最初で最後だった。
* * *
今すぐに、この指輪を差し出すべきだ。
理性では分かっている。
だがアイリスの心は納得していない。
(……大した思い入れなんかないと思っていたけど)
どうやら、そんなことはなかったらしい。
アイリスは今、この指輪を手放したくないと、そう思っている。
(自分に、優しく……)
あの女性に言われた言葉を、心の中で反芻する。
自分のために、自分の心に従うなら、この指輪は渡さなければいい。
だが、振り返れば三日間共に旅をしてきた人々がいて。赤ん坊を抱いた女性が今にも泣き出しそうな表情でアイリスの方を見ている。
指輪を渡したくない。でも、彼女らのことも助けたい。
アイリスは何も決められなくなってしまった。
そんな彼女のことを、野盗たちは待ってはくれなかった。
「早くしろ!」
野盗の一人がアイリスの肩に手をかけた。思わずその手を振り払うと、野盗は意外な抵抗に驚いてドスンと尻餅をついてしまった。
「クソっ! いい気になりやがって!」
恥ずかしさで顔を真っ赤にした野党が懐から取り出したのは、拳銃だった。
パンッと乾いた音が鳴る。
一度目は威嚇射撃だった。野盗が空に向けた銃口から煙が上がっている。
「さっさと出せ!」
叫び声と共に、今度はアイリスに向けられる銃口。
それでも、アイリスは動けなかった。
「やめて!」
沈黙を破るように動いたのは、赤ん坊を抱いた女性だった。抱いていた赤ん坊を隣の乗客に押し付け、そのままの勢いでアイリスに飛びつく。
「もう十分でしょ! これ以上、この人から奪わないで!」
女性が叫ぶように言うと、他の乗客たちまで声を上げ始めた。
「そうだ!」
「もうやめろ!」
「さっさと帰れ!」
その声を聞いて、アイリスは顔を真っ青にした。
(いけない、このままじゃ……!)
彼女の予想通り、野盗たちはさらにいきり立って乗客を囲う輪を狭めて迫ってきた。
「黙れ!」
「ブチ殺すぞ!」
そして、野盗は今度こそピタリと狙いを定めた。
銃口が、アイリスと女性に向けられる。
「死ね!」
今度は、迷わなかった。
アイリスは一瞬も迷うことなく、女性の腕を引き、彼女の頭と胸を守るように抱き込んだ。
──パンッ!
二度目の銃声。
だが、放たれたのは野盗の弾丸ではなかった。
数秒後、野盗の身体が傾いで、ドサリと倒れる。
「え?」
女性が驚きに声を上げた、その時だった。
道の向こうで土煙が上がった。
さらにドカドカとけたたましい馬蹄の音と共に土煙が近づいてくる。ただの馬ではない。軍馬だ。
野盗たちは慌てて退散しようと動き始めたが、軍馬の群れの方が早かった。
乗っているのは、もちろん軍人。数は三十以上いる。
「捕らえろ!」
その先頭、ひと際立派な黒駒に乗っていたのは……、
マシューだった。
彼の号令で野盗たちが次々と捕えられていく。
アイリスと女性は二人して抱き合ったまま、足の力を失ってその場にへなへなと座り込んだ。
呆然としている間に、野盗たちはあっという間に捕らえられてしまった。
「アイリス!」
馬から降りたマシューがアイリスに駆け寄る。
「けがは!?」
アイリスは驚いていた。
髪を振り乱し、額に汗を浮かべ、服は土埃だらけで。
こんなにも慌てている彼を見たのは初めてだったから。
返事をしないアイリスに、マシューはさらに顔を青くして彼女の前にしゃがみこんだ。
「どこが痛む!?」
アイリスの腕に触れ、肩に触れ、けががないか確認する。これにも驚いて、アイリスは固まってしまった。こんな風に彼に触れられたのも、初めてだ。
「ちょっと、あんた!」
驚くアイリスの代わりに、隣の女性がマシューをじろりと睨みつけた。
「そんなにべたべた触るんじゃないよ、夫でもないのに!」
そう言って、マシューからアイリスを引き離す。
「……」
「……」
『夫でもないのに』
その言葉に、アイリスもマシューも何も言えなくなって固まった。
「んん?」
沈黙した二人の様子に、女性は怪訝な表情を浮かべてから、そっとアイリスの耳元に顔を寄せた。
「訳あり?」
「……はい」
小さく頷いたアイリスに、女性の方は深く頷いた。そして、さらにグイっと力強くアイリスとマシューの間に割り込んで再びマシューを睨みつける。
「この子のけがは私がみるわよ。あんたは、さっさとあいつら捕まえて連れてってよ!」
そう言ってからアイリスの腕を引いて立ち上がり、さっさと彼女を馬車の中に放り込んでしまった。慌てて追いかけてくるマシューを、今度は他の乗客が壁になって押しとどめる。
「ついでですから、あの丸太もどけてくださいよ、旦那」
乗客たちはそう言って、マシューをアイリスから遠ざけてくれた。
アイリスは馬車の幌の隙間から、道をふさぐ丸太の方へ連れて行かれるマシューを見た。眉を八の字に下げた情けない顔で、なんとかアイリスの様子を見ようとチラチラと振り返っている。
そんな彼と、目が合った。
アイリスは慌てて目を逸らし、顔を隠した。他の乗客が拾ってきてくれた毛皮のコートに顔を埋めて、うう、と小さく唸る。
彼女は、頬が熱くなるのを止められなくなっていた。




