第6話 北へ
南へ向かう汽車の切符を破り捨てたアイリスは、まず駅を出て宿をとった。そして翌朝、再び人混みに揉まれながら今度は北へ向かう汽車の切符を買い、飛び乗った。
目的地は、かつて氷の魔女が暮らしていたとされる北の霊山だ。
この病が氷の魔女の呪いなら、その呪いを解けばいい。
アイリスはそう考えたのだ。
荒唐無稽で無謀な話だ。
そもそも彼女には魔法の心得があるわけでもないので、北に向かったところで魔女の呪いを解く方法など知らない。
だが、それでも。
(残り一年、できることは全部やってみよう)
そう、決めたのだ。
だから、まずはひたすら北へ向かう。
霊山の近くまで行けば、魔女の呪いについて知っている魔術師がいるだろうから。
窓越しに遠くなる首都の景色を見ながら、アイリスは毛皮のコートをぎゅっと抱きしめた。昨日の内に買ったものだ。コートの他にも、毛皮の手袋とマフラー、厚手の下着も準備した。
ホテルでチェックアウトの予定を聞かれて、明日には北へ向かうと伝えたところ、
『北では既に雪が降っています。冬支度をしませんと、大変なことになりますよ』
と言って、支配人がホテルに商人を呼んでくれたのだ。
ありがたい気遣いに感謝の気持ちを伝えようとしたが、今度も上手くいかなかった。そこで、アイリスは多めにチップを渡そうとしたが、支配人に固辞されてしまった。
『また次に首都にいらしたときにも、当ホテルをご利用ください。それで十分でございます』
そう言って。
余命一年のアイリスには、次の機会はない。
数日前のアイリスなら、無理やりにでもチップを渡して話を終わらせていたかもしれない。だが、彼女はこの提案に、小さく頷いた。
それを見た支配人の嬉しそうな表情を思い出すと、胸が温かくなって、勇気が湧いてくる。
(自分にも、優しく)
アイリスにとっては簡単なことではない。だが、難しいことでもなかった。
自分の気持ちが傾く方へ、本当に自分が望む方へ、自分の行動を変える。
たったそれだけのことが何かを変えるのだと、アイリスは理解した。
(今更、かもしれないけれど……)
もっと早くに理解していれば。
マシューとの関係も何かが変わっていたかもしれない。
考えても意味のないことだ。
アイリスは一つ息を吐いてから、今度は汽車の向かう先、北の空を見た。
鈍色の空の向こうに、大きな山々の影が見える。
ここから向こうは山岳地帯で、線路はその隙間を縫うようにして敷かれている。だが、それらの線路もここから一日の距離で途切れてしまう。そこから先はさらに険しい土地となるため、線路を敷くことができなかったのだ。
最北の駅に着いたら今度は辻馬車を乗り継ぐ必要がある。ホテルで聞いたところによると、北の霊山まではどれだけ順調に行けても一か月はかかるだろうと言われた。
その間に発作が起こらないとも限らない。
不安ではあったが、南へ向かうために公爵家を出た時よりも心は軽い。
旅は始まったばかりだ。できるだけ体力を温存しなければならない。アイリスは再び毛皮のコートを抱きしめて顔を埋め、そっと目を閉じた。
* * *
その日の夕方に最北の駅のある町に到着したアイリスは宿に一晩泊まり、翌日、北へ向かう辻馬車に乗り込むことができた。
「あんた、運がいいねぇ」
隣には、赤ん坊を抱いた気風の良い女性が座った。彼女もアイリスと同じく大きな荷物を抱えているので、遠くからやって来たらしい。
「私は町で一週間待ったんだよ、この辻馬車が出発するのを」
「そうなんですね」
「北へ向かう人は少ないからね。二週間に一本しかないのさ」
それは確かに運がいいとアイリスは思った。下手をすれば、汽車で町に到着してから二週間足止めされる可能性もあったということだ。
(幸先がいいわね)
アイリスは心が弾む思いだった。といっても、もちろん表情は少しも変わらないのだが。
そんな彼女の顔を見て、女性が怪訝な表情を浮かべる。
「あんた、貴族?」
「はい」
「やっぱり、こんな馬車は嫌かい?」
女性の言葉に、周囲の乗客も反応した。全員、平民のようで、妙に身なりのいいアイリスのことが気になっていたらしい。
「狭いし、汚いもんね」
小さな荷台には約十人の人間がぎゅうぎゅう詰めになっているし、荷台も幌もつぎはぎだらけでお世辞にもきれいだとは言えない馬車だ。
だが、アイリスはそんなことは微塵も気にしていなかった。少し不便だとは思ったが、隣の乗客と肩を寄せ合って揺られる馬車の旅も悪くないと思っていたところなのだ。
「いえ」
アイリスは淡々と首を横に振った。
だが、それ以上は上手く伝えることができない。困ってしまって黙り込んだ彼女に、女性が顔をしかめる。
「やっぱり、嫌なんだろう?」
そうではないと伝えたいが上手く言えないアイリスに、女性や他の乗客の雰囲気が険しくなってきた。
「まあまあ」
そこに割って入って来たのは、一人の男性だった。白くてふわふわの口髭が特徴的なその人は、目尻に深い皺を寄せてほほ笑んだ。
「嫌だろうとなんだろうと、目的地までは乗っていくしかないんだ。そんなこと気にしたって仕方ないだろう?」
この言葉で乗客たちの剣呑な雰囲気は霧散し、『それもそうか』と女性も納得した様子だった。
アイリスが小さく頭を下げると、男性は軽く手を振って応えてくれた。だが、それ以降は誰もアイリスに声をかけようとはしなかった。
これからおよそ三日、この狭い空間の中で共に過ごさなければならないのだ。余計な諍いは起こさないに越したことはない。全員が、アイリスのことは空気として扱う、ということで暗黙の内に了解したのだ。
これはアイリスにとってありがたいことでもあった。
その日、日が暮れるまでアイリスは他の乗客たちの会話に耳を傾けて過ごした。
そして日暮れと共に馬車は足を止めた。そこには簡易的な小屋が立っていて、辻馬車の乗客と御者が泊まれるようになっていた。
目的地までの間に、こういう小屋がいくつか用意してあるのだという。
小屋は優先的に女性が使い、男性は馬車の荷台で休むことも暗黙の了解だった。
朝には再び馬車に乗って森の中をひたすら北へ向かう。
それを二度繰り返した。
だが、順調だったのはそこまでだった。
三日目の夕方、道の真ん中に大きな丸太が横たわっていて、馬車は行く手を阻まれてしまったのだ。
男性たちが頭を寄せ合って丸太をどける方法を思案していると、森の奥から不穏な気配と共に十数人の男たちが飛び出してきた。
野盗だった──。




