第4話 私だって、本当は
何本ものプラットフォームがあるこの駅は交通の要衝だ。地方から首都へ来た人々と、これから各地へ旅立っていく人でごった返している。
アイリスは初めての人混みに戸惑いながらも、なんとか看板を頼りに切符売り場にたどり着くことができた。
そこには行列ができていた。
列には貴族や労働者、男性に女性、様々な人が並んでいる。貴婦人たちのきらびやかな羽飾りがついた帽子や、紳士たちのシルクハットが華やかだ。
さらに、列の中には小さな子供の姿もある。あまり綺麗とは言えない服を着ている彼らは道で暮らす子供なのだと、ここで来る途中の貸馬車の御者が教えてくれた。貴族から小遣いをもらって、代理で切符購入の列に並ぶらしい。
列の脇では、立売の女性たちが串焼きやサンドウィッチを売っている。さらにその脇で、小さな女の子たちが花を売る。
華やかだが社会の縮図を表したかのような光景に、アイリスは圧倒されていた。
(すごいわ)
彼女は、こんな風に人並みに揉まれるのは初めてなのだ。
侯爵家の令嬢として生まれ育ち、十八歳で公爵家に嫁いだ彼女は、ほとんどの移動を馬車で済ませてきた。汽車には一度も乗ったことがない。
両親や兄はバカンスのシーズンになれば汽車に乗って旅行に行くこともあったが、アイリスは六歳の時のあの湖への旅行以降、同行しなくなった。彼女の方から『屋敷に残りたい』と申し出る形で。
彼らのせっかくの旅行に水を差したくなかったから。
公爵家に嫁いでからもそれは変わらず、ほとんどの時間を公爵領の屋敷で過ごした。首都のタウンハウスで過ごしたのは、ほんの数回だけだ。
また、彼女が社交界に出席したのは王宮で開かれるような重要な行事だけで、ほとんどの席には夫一人で出席してもらっていた。
これも、理由は同じ。せっかくの楽しい時間に『氷の女』がいては台無しだから。
列に並びながら、ぽつぽつとその頃のことを思い出していると、ふと何かの気配が気になった。誰かに見つめられているような、そんな気配だった。
(だれ?)
きょろきょろと周囲を見回してみたが、それらしい人物はいない。貴族の夫人が一人で並んでいるのが珍しくて、誰かが見ていただけだろう。アイリスはそう結論づけた。
その頃になって、ようやくアイリスの順番が回って来たのだった。
無事に切符を購入したアイリスは、再び看板を頼りに目的のホームへ向かった。
彼女が買った乗車券は、南部地方へ向かう汽車の一等車だ。
ホームに着くと、そこも人でごった返していた。
大勢の人がもみくちゃになりながら汽車の到着を待っている。
このホームは両側に汽車が入るようで、余計に人が多いらしい。片側のホームには南へ向かう汽車が、反対側には北へ向かう汽車が来るようだ。
「あ、っとと、っと!」
ふと、後ろで人の叫び声が聞こえた。
振り返ると、彼女のすぐ後ろで大きな荷物を抱えた年老いた女性がよろめいていた。
「大丈夫ですか」
思わずその腕を掴み、大きな荷物に手を添えて支えた。女性はなんとか転ばずに踏みとどまり、二人はそろってほっと息を吐いた。
「ありがとうございます、奥様」
女性はしわくちゃの顔にさらに皺を寄せて、にこりと微笑んだ。
──奥様。
その呼び方に、少しだけ胸が痛んだ。
(一度も、それらしい務めを果たすことができなかった……)
夫と一緒に社交界に出なかったことも、離縁したことを悔いてはいない。これで良かったと、心から思っている。
だが、後悔が一つもないわけではなかった。
(私だって……)
できることなら、夫の隣で優雅にほほ笑む立派な公爵夫人になりたかった。
(やめよう)
いくら考えても詮無いことだ。アイリスは頭を振って、女性の荷物を支える手に力を込めた。
「……お怪我は?」
アイリスが尋ねると、女性は優しくほほ笑んだ。
「大丈夫。ありがとう」
「いいえ」
「あなたは、大丈夫?」
「え?」
「なんだか、苦しそうに見えるわ」
まさか知らないうちに発作が起こっていただろうかとアイリスは思ったが、胸に痛みはない。だが、女性は心配そうな表情で彼女を見つめて、その冷えた手をぎゅっと握った。
「大丈夫です」
その優しさが嬉しいのに、アイリスにはやはり淡々と答えることしかできなかった。だが、女性の方は気を悪くした様子も見せず、また優しくほほ笑んだ。
「奥様はどちらに行かれるの?」
「南へ」
「いいわねえ。暖かい国に、私も行ってみたいわ」
女性はどうやらアイリスが乗る汽車の反対側のホームから出発する、北へ向かう汽車に乗るらしい。
「北にね、息子の家族が住んでいるの。私もそろそろ生い先短いから、孫の顔を見に行こうと思ってね」
家族思いのいい人だ。
ほどなくして、ホームの両側に汽車が入ってきた。人混みがうねうねと動き出す。
「わ、あら、あらら」
それにつられて、また女性の身体がよろめいた。アイリスは慌ててそれを支えて、一緒に人混みの中を移動する。
「ごめんなさいね」
「いえ。私の方はまだ時間がありますので」
アイリスは、このまま女性を席まで送ることにした。その頃には乗車する人波も落ち着いてまともに歩けるようになるだろうし、何より、この優しい人を一人にするのは心苦しかったから。
人波にもまれながら、女性はうきうきと楽しそうに家族の話をアイリスに聞かせてくれた。
元は北国で農業をやっていたが不作が続いて仕事を求めて首都に来たこと。北に残してきた先祖代々受け継いできた農地のことが心残りだったが、数年前に息子がその農地を開墾してくれたこと。今はその息子と家族がその農地を守り暮らしていること。孫は三人、全員男の子でやんちゃ盛りだということ。
女性の話は、どれもアイリスにとっては新鮮な驚きに満ちていた。
北の大地で逞しく生きる家族。
彼らはどんな暮らしをしているのだろうか。どんな風景を見ているのだろうか。
知りたい、見てみたい。
ふと、そんなことを考えて、アイリスはまた頭を振った。自分には、決して見ることのできない風景だ。
ほどなくして、女性の席が見つかった。
彼女が乗るのは二等車。
客車はコンパートメントと呼ばれる種類で、車内が個室に区切られているのでそれぞれの個室用の扉から乗り込む必要がある。女性が持っている乗車券を確認し、その番号が書かれた扉を開き、荷物を運びこむ。最後に、女性を席に座らせた。
「何から何まで、ありがとう」
「いいえ」
女性はアイリスの手をぎゅっと握りしめた。
そして、
「どうか、諦めないで」
そう告げた。