第37話 世界で最も偉大な魔法
「……やっぱり、誰かが、やらなきゃならない」
あちら側の世界から噴き出し続ける鈍色の空を睨みつけていたテオは、すぐさまアイリスとマシューの方を振り返った。
「俺がいく」
透明の、ガラス玉の瞳が。
じっと、二人を見つめる。
「子どもたちを頼む」
彼の三人の子供たち。
カール、デニス、エルマー、とても優しい子供たち。
「……子供たちが生きる世界を、俺が永遠に守る。本望だよ」
いつもの皮肉っぽい笑みではない。テオが、こんな風に爽やかにほほ笑むのは初めて見た。
なにもかも、覚悟を決めてしまった。
そんな顔だ。
「……ダメ」
思わず、アイリスは自分を抱きしめるマシューの腕を振り払った。その勢いのままテオの身体にしがみつく。
「ダメよ!」
突然飛びつかれたテオはバランスを崩してその場に倒れ込み、アイリスがその上に馬乗りになった。
「幸せになってって、そう言われたじゃない!」
彼の妻が、最期の時に。
自らの死を選んでまで守りたいほど愛した男と、子供たちの幸せを願った。
「今、あなたが犠牲になって、あの子たちは幸せになれるの?」
「なれる。生きてさえいれば」
「本当にそう思うの!?」
叫ぶように言ったアイリスに、テオの顔が歪んだ。
「生きてさえいれば、なんとでもなる。悲しいのはほんの一瞬で、いつか俺のことなんか忘れて、幸せに……」
言いながら、テオの瞳にじわりと涙が滲んだ。
「幸せに……」
なれるだろう。
人は、いつか悲しみを忘れる。
いなくなってしまった人のことを忘れて、いつか幸せになれる。
だけど。
「そこに、あなたはいないじゃない」
アイリスの瞳から、ポロリと涙がこぼれた。
「あなたの幸せは?」
氷の魔女にだって、きっと大切な人がいたはずだ。
一緒に生きて、幸せになりたい人がいただろう。
それでも彼女は世界を守るために自らが犠牲になることを選んだ。
それは、尊い選択だ。
間違ってなどいない。正しい選択だ。
だけど、彼女にだって。
愛する人と生きる未来を願う権利があったのだ。
「テオ殿……」
マシューが、そっとテオの肩に触れた。握った拳で、トントンと優しく、彼の肩を叩く。
「俺はついさっきまで、いざとなれば俺が生贄になるつもりでいた」
驚くアイリスに、マシューが苦笑いを浮かべた。
「不測の事態はいつでも起こり得る。やはり生贄が必要になることもあるだろうと、覚悟を決めてここに来た」
マシューが、今度はアイリスの手を握った。
「今俺が生きている世界は、君が与えてくれた。
俺にとって世界は君で、君が世界の全てだから」
だけど、とマシューは続けた。
「さっき、君の笑顔を見て……。ずっと一緒にいたい、君の笑顔をずっと一緒に見ていたいと、そう思った」
マシューはアイリスの手を自分の額に押し付けた。その温もりを確かめるように
「君を残して逝きたくない」
喉の奥から絞り出したような声は、彼の魂の叫びだ。彼の心からの願いだ。
その切なさに、アイリスの胸がぎゅうっと締め付けられる。
テオも同じ気持ちなのだろう。
両手で顔を覆って、肩を震わせている。
大の大人三人が死にたくないと言って、肩を震わせて泣いている。他人から見れば、まったく情けない光景だろう。
だが今、ようやく。
同じ気持ちになったのだ。
愛する人たちと、未来を生きたい。
同じ気持ちで、切なくて、三人は子供のように声を上げて泣いた。
彼らが話す間も、鈍色の空は噴き出し続けて、霊山の上空を覆い始めた。遠くからは霊山に笠雲がかかっているように見えているだろう。
きっと、魔女たちもこの事態に気づいているはずだ。
誰が生贄になるのだろうと考えているだろうか。
いや、きっと。
誰も犠牲にならない方法を、この三人なら見つけ出せると。そう願ってくれている。
ハンナも子どもたちも、信じて待っている。
アイリスは涙を流しながらも考えた。
足りないのは、この世界を守るという強い意思。
それだけは寄せ集めの魂では再現できなかった。
(どうすればいいの……?)
胸元を、ぎゅっと握りしめた。
その時だった。
ふっと、彼女の脳裏に、懐かしい声が響いた。
──どれだけ大きな困難があっても、『愛』さえあれば乗り越えられるから。
あれは幼い頃に聞いた優しい声。
ほほ笑み返すことすらしない我が子を、それでも愛してくれた母の言葉だ。
「……愛」
それは、世界で最も偉大な魔法──!
アイリスは袖口でごしごしと涙をぬぐった。泣いている場合ではない。
(私が、世界を……この人たちを守る!)
マシューの方を見つめると、彼も涙を拭いて、アイリスを見つめ返した。
「ナイフを貸してください」
「わかった」
理由を聞かず、マシューは懐から護身用のナイフを取り出した。
それを受け取ったアイリスは、一瞬も迷うことなく自分の髪をザクリと断ち切った。
プラチナブロンドの髪がハラハラと舞い、轟轟と渦巻く鈍色の空に溶けていく。
「何を!?」
驚くテオとマシューの手を引いて、二人を立たせた。
「きっと大丈夫」
アイリスはほほ笑んだ。
「私はずっと、愛は自分のものにはならないと思っていました」
『氷の女』と呼ばれ、誰からも愛されず、誰も愛せず。そうして生きていくのだと思っていた。
「でも、違ったんです。愛は、いつも私のものでした」
父も母も、愛してくれていたのだ。
だから辛くて、自分を守るために離れるしかなくて。
たくさんの人が、アイリスに優しくしてくれた。
アイリスの優しさに気づいてくれた。
マシューは、出会ったその日から、愛してくれた。
『氷の女』だった彼女を、美しいと言ってくれた。
愛が自分のものではないなんて、そんなのは思い違いだったのだ。
生まれたときから、ずっと。
たくさんの愛に包まれている。
それが生きるということ。
それが、世界だ。
「世界を守るために意思が必要なら、世界の愛で守ればいい」
アイリスは目を閉じて思い浮かべた。
この世界にあふれるたくさんの愛を。
そして、願った。
妖精たちに。
ふわりと、アイリスの身体から湧き上がるように妖精たちが姿を見せた。
一人、また一人。赤、青、黒、緑、金……、様々な色彩の妖精たちがアイリスの身体から湧き出てくる。
そして妖精たちは嬉しそうにほほ笑みながら、鈍色の空に向かっていった。
きらり、きらりと、何かが光った。
アイリスの髪だ。
妖精がそれに触れると、だんだん輝きが増して。
やがて、鈍色の空を呑み込んで。
銀色の輝きが、世界へ向けて放たれた。
そのまぶしさに、思わず目を閉じる。
次に目を開いた時、空は青く、どこまでも青く、澄み渡っていた。
※6/67時頃、約十数分の間、誤って次話(38話)をこのページに掲載していました。
申し訳ございませんでした。




