第34話 高貴な人の血と肉と魂
それから数日、アイリスはほとんどの時間をハンナの小屋で過ごした。勉強したり手紙を書いたり、やらなければならないことは山のようにある。
テオが『まさか弟子にするつもりじゃないだろうな』とハンナに噛みついていたが、ハンナは『女同士の話に首を突っ込むんじゃないよ、鍋に入れて煮ちまうよ!』と応戦して、二人はなんだか険悪な空気になってしまった。
それは、アイリスもマシューも同様だった。
アイリスはマシューに何も話さなかったし、マシューは何やら秘密にされていることに気が付いている。だが、自分も彼女に対して大きな秘密を抱えているので、問いただすことも憚られる……。
そんな微妙なせめぎ合いが続いていた。
そんな中でも、二人は毎晩一緒に眠った。
何も言わず、聞かず、黙って手をつないで眠りにつく。
それだけは、やめなかった。
さらに数日後、アイリスのもとに小包が届いた。
差出人は錬金の魔女。
首都の地下で暮らしている彼女には、とある人に宛てた手紙を託していた。その返事と、例のものをアイリスに送り返してくれたのだ。
「驚いた。本当に手に入るなんて」
「錬金の魔女様のおかげですね」
「いやいや、あんたの粘り勝ちさ」
その後も、アイリスのもとには次々と小包が届いた。
世界中の魔女たちから。
小包の数が九十を超えた頃、アイリスはようやくテオとマシューにすべてを打ち明けることにした。
果たして上手くいくのか分からない、賭けのような話だったので、いつ伝えるべきか悩んでいたのだ。
だが、それも目途が立った。
呪いを解くために霊山に入る、その前日のことだった。
「お話があります」
深夜、マシューとテオが地下の研究室で秘密の相談をしているところに、アイリスとハンナの二人で突撃した。
テオは広げていた羊皮紙を慌てて隠し、マシューは手元に広げていた帳面を慌てて懐に突っ込んだ。
どうやら、封印を解いた後の生贄の段取りについて相談していたらしい。
二人とも完全に目が泳いでいる。
隠し事ができない人たちなのだ。
心根が優しいから。
ハンナも同じことを思ったのだろう、呆れたように溜息を吐いた。
「あんたたちの考えてること、この子は全部知ってるよ」
ズバリ言い放ったハンナのセリフに、マシューとテオが目を剥いた。
「あんたたちのどちらかを犠牲にして自分が生き残るのは、まっぴらごめんだってさ」
ハンナがアイリスの気持ちを代弁すると、マシューもテオも気まずそうに目線を逸らした。
「だが、それしか方法がない」
マシューが両手の拳を握りしめて、
「君を助けられるなら、俺は……」
そんなことを言うものだから、アイリスは思わずマシューに駆け寄った。そして、彼の頬を、
ひっぱたいた。
あまりの出来事に、テオもハンナもあんぐりと目を見開いて固まっている。
「私は……」
あなたと一緒に生きたい。
そう伝えたいのに、やはり言葉は出てこない。
アイリスはぎゅっと唇を噛みしめてから、ポケットから取り出した例のものを、テーブルの上にドンと音を立てて置いた。
それは小さな瓶だった。
コルクの栓の上から封蝋で厳重に封印がしてある瓶の中は、真っ赤などろりとした液体で満たされてる。
「国王陛下の血と肉です」
マシューとテオは驚きに声を失って固まっている。
次いで、アイリスは油紙に包まれた毛束を二人に見せた。美しい金髪の毛束だ。
「国王陛下の御髪です。髪には魂が宿りますから」
沈黙が落ちる。
二人の男は、まさに何が何だか分からない、という心境だろう。
「どういうことだ」
絞り出すように問うたマシューを、アイリスは真っすぐに見つめた。
「生贄は必要ありません。百人の高貴な人から血と肉と髪、つまり魂を集めました」
これにハッとしたのはテオだった。
「合わせて一人分になるように集めた、血と肉と魂を生贄の代わりにしようっていうのか」
「そうです」
「だが、どうやって……」
テオの問いに、アイリスは一つ頷いてから、今度は空の瓶を取り出した。
蓋を開け、手のひらに乗せる。
(心を落ち着かせて……)
頭の中で、あの感覚を思い出す。
あちら側の世界で、ゆらゆらと揺られていた、ふわふわと優しさに包まれていた、あの感覚だ。
そうすると、彼女の手のひらに、ちょん、と何かが触れた。
四枚の羽をもつ小さな人のような生き物……妖精だ。
今、アイリスの手のひらの上は、こちら側の世界とあちら側の世界が重なっている。
妖精はアイリスの手のひらに優しく口付けてから、瓶の口から中に飛び込んだ。すると、妖精の姿はすぅっと消えて、代わりに真っ赤な液体がじわじわとあふれ出して、瓶の中を満たしてしまった。
アイリスが反対の手で瓶に栓をすると、ゆらゆら、ふわふわと揺れていた周囲の空気が霧散する。
「今のは……」
マシューがごくりと唾を飲み込んだ。
「魔法……?」
アイリスはホッと息を吐いてから、一つ頷いた。
「東洋の魔女様に教えていただいた、人の身体の中から血と肉を百分の一だけ取り出す魔法です」
東洋の魔女は他の魔女にもこの魔法を伝授した。彼女たちはこれを使って、高貴な人から血と肉を集めたのだ。
そして、東洋の魔女はアイリスにもこの魔法を教えた。
アイリスは『自分は魔法など使えない』と言ったのだが、
『自覚がないだけ。……あなたはもう、こちら側の人間よ』
と、妖艶にほほ笑んでいた。
半信半疑だったが、こうしてアイリスは魔法を使うことができた。
あの魔女たちが知れば、『ほら、やっぱり!』と手を叩いて喜ぶだろう。
だが、いま重要なのはアイリスが魔法を使えたことではない。
この魔法を使って、世界中から高貴な人の血と肉と魂を集めることに成功した、ということ。
誰も犠牲にせず、氷の魔女の封印を解き、新たな封印をかけることができるということだ。
テオはしばらくの間、神妙な表情で考え込んだ。
ややあって、深く、深く息を吐く。
「魔女に助けを求めることも、生贄を百等分することも、俺じゃあ、到底思いつかなかった」
テオがホッとしたようにつぶやき、アイリスとハンナも目を見合わせて微笑みあった。
ところが。
まったく状況を掴めていない人がいた。
マシューだ。
「……つまり、どういうことだ?」
と顔をしかめている。
「誰も犠牲にせず、呪いを解くことができる、ということです」
アイリスが淡々と告げると、マシューはしばらく固まってから、顔をくしゃりと歪めた。
そして、
「アイリス……!」
アイリスの身体を抱き上げて、その身体に顔をぐりぐりと押し付けて。
「ありがとう、ありがとう……!」
震える声で、何度も、何度も繰り返した。




