第3話 優しさと温もり
目が覚めると、アイリスは宿のベッドで横になっていた。服もコルセットも脱がされて、楽な寝間着姿で。何枚も毛布が重なっているとはいえ妙に温かいベッドの中には、湯たんぽが置かれている。誰かが彼女の病気を知ったうえで看病してくれたのだ。
少しの間ぼーっとしていると、部屋の扉が開いた。
入って来たのは、やはりあのウェイターの青年だった。
「あ、目が覚めましたか」
今朝とは違って、かっちりとした制服に身を包み、しっかりと敬語で話しかけてくる。
「お着替えは別の女性スタッフが対応しましたので。ご安心ください」
どうやら公私をしっかり分ける性格のようで、それがなんだか可笑しくて。
アイリスはホッと息を吐いた。
「今朝がた宿の前で倒れて、今は夕方です」
青年は持ってきたワゴンから湯気の立つケトルを手に取り、手際よくお茶を入れ始めた。
「念のため医者に診てもらいました」
それで、彼はアイリスの病名を知っていたので身体を温めてくれたようだ。
「貸馬車には、また連絡すると伝えて帰ってもらいました」
「それじゃあ、明日の朝にもう一度来るように伝えてください」
青年は返事をせず、黙ったままティーカップを差し出した。その瞳がうろうろと揺れる。
「でも、もう少し休んだ方が……」
「休んでも、何も変わりませんから」
そういう病気なのだ。
発作が起これば痛みに悶え苦しむ。それを何度も繰り返しながら、徐々に死に近づいていく。
休んだところで発作が治まるわけではないのだから、アイリスにできることは一日も早く暖かい場所に行くことだけだ。
アイリスの冷たい声に、青年の方がヒクリと震える。
(あ……)
後悔したが、もう遅い。
いつもそうだ。
冷たくするつもりなんかないのに、いつも間違えて、傷つ付けてしまう。
「……分かりました」
青年は、寂しそうに肩を落としてから踵を返した。
「お食事をお持ちします」
去っていく青年を見送ってから、アイリスはもう一度ベッドに横になった。
完全に気が滅入っている。
『氷心症』の発作で初めて気を失ったこともそうだし、その間に見た夢も気分の良いものではなかった。さらに、彼の優しさを上手く受け取ることができない自分が情けなくて。
アイリスはゴロリと寝がえりを打って、枕に顔を埋めた。
(はやく、南へ行かないと)
行くべき場所へ、早く。
そうしなければ、余計に人を傷つけてしまうから。自分も苦しいばかりだから。
* * *
翌朝、同じ時間に宿を出ようとしたアイリスだったが、例の青年に止められてしまった。彼の出勤時間には早いはずだが、すでに制服を着て仕事を始めているようだった。
「貸馬車には、もう少し遅い時間に来るように伝えてあります」
「なぜ?」
「早朝は冷えますから」
少しでも早く出発して少しでも早く首都に到着したかったが、こう言われてしまっては仕方がない。彼の言う通り、冬にはまだ早い季節だが早朝は冷える。昨日の発作がその冷えのせいだと言われれば、そうかもしれなかった。
「まずは、朝食を召し上がってください」
青年に案内された食堂には、一人分の朝食が既に準備されていた。温かいクリームスープ、焼き立てのパン、蒸した野菜のサラダ、鶏の香草焼き。どれも温かそうだ。
「こんなに朝早く……」
コックが仕事を始めるにはまだ早い。だからアイリスは昨日も今日も朝食を抜くつもりだったのに。
「事情を話したら、みんな早めに出勤してくれました」
青年がチラリと視線を向けた先は、バックヤードだ。扉の隙間から数人の人影が見える。アイリスのために早朝に出勤してくれたコックたちだろう。
「……ごめんなさい」
アイリスの唇から漏れたのは、謝罪の言葉だった。
自分の病気のせいで多くの人に迷惑をかけてしまった。そう思ったのだ。
この青年にも、たくさん気をつかわせてしまった。
「あんた、貴族のくせに礼儀を知らないのか?」
くだけた物言いに、思わず顔を上げる。そこには満面の笑みを浮かべた青年がいた。
「こういう時は、ありがとうって言うんだよ」
何かが、アイリスの胸でパチンとはじけた。
(どうして、忘れていたんだろう)
こんな、当たり前のことを。
「……あ」
その言葉を口に出そうと唇を開いた。だが、わずかに喉が震えて息が漏れただけだった。氷が張り付いたみたいに、喉も唇も固まってしまう。
一言。そう、たった一言伝えたいだけなのに。
(どうして、できないの?)
なかなか言葉にできないアイリスを見つめながら、それでも青年は笑顔を崩さなかった。
ややあって、ポンと軽い調子でアイリスの肩を叩く。
「ちゃんと聞こえた」
「え?」
「ありがとうって!」
そんなはず、ないのに。
ゆっくり朝食を食べている間に、宿の従業員がアイリスの旅支度をしてくれた。ふわふわの毛布と湯たんぽ、替えの湯を入れたケトル、それとは別に温かい紅茶を入れた携帯用のケトルも。
「次の街に着いたら、この貸馬車に預けてください。こちらに戻って来た時に返してもらいますから」
それならば、とアイリスは好意を受け取ることにした。支配人に多めにチップを渡してから馬車に乗り込む。
座席に座った彼女の膝に、青年が毛布を掛けてくれた。
「温かくして、ゆっくり行ってください。無理をしないで」
「ええ」
「また、どこかでお会いしましょう。……あ、そうだ」
降り際、青年がキョロキョロと周囲を見回してから、アイリスの耳元に顔を寄せた。
「あなたは一人じゃないみたいですから。安心して下さい」
「え?」
「……あなたに神のご加護がありますように」
最後に厳かに祈った青年が馬車を下りて扉を閉めると、馬車はすぐに動き出した。
ガタゴトと揺れながら進む馬車の窓越しに振り返れば、青年と宿の従業員たちが大きく手を振っているのが見える。彼らからは見えないだろうが、アイリスも小さく手を振ってそれに応えた。
(……忘れないでいよう)
彼らの優しさを。
そして、これからの旅路に思いを馳せた。
もしも、彼らと同じように温かい優しさを向けてもらえたなら。その時は、もっと上手に受け取れるように。
(ありがとう、ありがとう、ありがとう)
口にできない代わりに、アイリスは心の中で何度も繰り返した。
ただ一つ。
『また、どこかでお会いしましょう』
それだけは、絶対に叶わない。
それだけが悲しくて。
ぎゅうっと締め付けられるように、胸が痛んだ──。
数日後、アイリスは無事に首都に到着した。