第27話 分かり合いたい
マシューが侯爵に軽く会釈すると、侯爵の方は苦々しい表情を浮かべた。
「だまし討ちとは、感心しませんな」
どうやらマシューは、ここにアイリスが来ていることを告げずに彼を呼び出したらしい。
アイリスも侯爵も気まずくて、うろうろと視線をさまよわせることしかできない。
沈黙が落ちる。
と、そこにもう一人の人物がやって来た。
「感動の再会は済みましたかな?」
ガイセ卿だ。
何が何だか分からず目を白黒させるアイリスの隣では、マシューが頭を抱えている。
「教官……」
「なんだ、作戦は大成功だろう」
「まずは彼女の意向を確認したいとお伝えしたはずですが……」
「何を悠長なことを言っておる。好機逸すべからずと教えただろうが」
「いえ、ですが……」
どうやら、この再会劇を仕掛けたのはマシューではなく、ガイセ卿だったらしい。
「今日のこともそうだ。俺の助言がなければ、お前はアイリス嬢を舞踏会に誘うこともしなかっただろう?」
ガイセ卿がしかりつけるように言うと、マシューの背筋がピンと伸びた。こんな風に社交の場でタジタジになっているマシューを見るのは初めてだ。どうやら軍学校時代の教官には逆らえないらしい。
「この朴念仁は、どんな苦痛や悲しみからも俺が守ってやる! と、そういう心構えだったようだが……」
腕を組んだガイセ卿が、マシューをじろりと睨みつけた。
「とんだ見当違いだ」
「見当違い、ですか?」
思わず尋ねたアイリスに、ガイセ卿がニヤリと笑う。
「ただ守られることを望むだけの女性が、自ら死地である北を目指したりするものか。……あなたは強い」
ガイセ卿の目が優しげに細められた。
「守るだけが男の本懐ではない。戦場へ向かう伴侶の背を押すこともまた、夫の役目だ」
そう言ってから、ガイセ卿はマシューの腕を掴んで立たせてしまった。慌てたマシューがたたらを踏むが、気持ちの上でも体格の上でも逆らえないらしい。されるがまま、バルコニーの出口に連れて行かれる。
「閣下」
ガイセ卿に呼びかけられても、マシューはまだ心配顔のままだった。
そんなマシューに、アイリスは一つ頷いて見せた。
「大丈夫です」
本心からの言葉だった。
ガイセ卿の助言があったからとはいえ、今日ここに来るためにアイリスの背を押してくれたのはマシューだ。
そして、父──いつか向き合わなければならない人との再会の機会を設けてくれたのも。
(私を信じてください)
その気持ちをこめて、マシューを見つめた。
ややあって、マシューは一つ頷いてから、懐から一通の手紙を取り出した。
アイリスが両親に宛てた手紙だ。
「義父上」
今は既に離縁が成立しているが、マシューは敢えてそう呼んだ。呼ばれた侯爵は、ぎゅっと眉を寄せた。
「この手紙を受け取らなかった理由を、彼女に話してやってください」
「……分かった」
侯爵の返事を聞いて、マシューとガイセ卿はバルコニーから去って行った。
二人きりになり、再び沈黙が落ちる。
侯爵がどう切り出そうかと悩んでいるのは分かったので、アイリスは黙ったまま、彼が話すのをひたすら待った。
(そういえば、お父様も口数の多い方ではなかったわね)
子供の頃から、自分に対しても兄に対しても、それほど多くのことを語っていたという印象はない。家の中でよく話すのは、母と兄だった。
アイリスは、母と兄が楽しく話すのを聞くのが好きだった。きっと父もそうなのだろうと、幼いながらに思っていたものだ。
こうして父と二人きりになって初めて、アイリスはポツポツと幼少期のことを思い出していた。これまでは、ただ辛い日々として記憶にふたをしていたのに。
(お父様と分かり合いたい)
その気持ちがそうさせるのか、アイリスの脳裏には幼い頃の思い出が蘇ってきていた。
「……悪かった。手紙を受け取らなくて」
侯爵がくしゃりとアイリスの手紙を握りしめた。封をされたままということは、両親は二人とも読んですらいないのだということはアイリスにも分かっていた。
「母は、そなたのことを忘れてしまったのだ」
侯爵は両手で顔をおおい、うつむいてしまった。その声が震えている。
「そなたが離縁されたうえ、『氷心症』を患ったという知らせを受けたすぐ後、倒れて。……目が覚めた時には、そなたに関することは全て忘れてしまっていた」
アイリスは愕然とした。
忘れられたことが悲しいのではない。それほどの負担を母にかけてしまったことが申し訳なくて。
「どれだけ愛情を注いでも笑い返してくれない我が子を、まっすぐに愛し続けられるほど、強くなかった。そなたを遠ざけることで、自分と、そなたを守ろうとしていたのだ」
それはアイリスにも理解できた。
母もまた辛かったのだと。
「母は、そなたを愛していたのだ。それなのに、『氷心症』とは……!」
侯爵が肩を震わせている。
こういうとき、どうすればいいのか。
以前のアイリスには分からなかった。
だが、今のアイリスは知っている。
アイリスは侯爵にそっと触れて、昔よりも痩せてしまったその肩を、優しく撫でた。できるだけゆっくり、温もりが伝わるように。
マシューやハンナ、子どもたちがそうしてくれたように。
「忘れねば、守れないのだ。自分の心を。それほどに、そなたを愛しているのだ。……分かってくれ」
アイリスは、やはり何も言えなかった。
理解できないわけではない。
だが、悲しくないわけでもないのだ。
それを父に伝えることもできず、アイリスは胸の内で唇を噛んだ。
(こんな呪いがなければ……っ!)
今すぐ母のもとに飛んで行って、愛していると伝えられるのに。
(必ず、呪いを解こう)
アイリスは痛む胸に手を当てて、心の中で何度も繰り返した。
(呪いを解いて、お母様に会いに行こう!)
改めて、そう決意したのだった。
* * *
「上手くいくでしょうか」
人気のない廊下をマシューとガイセ卿が連れ立って歩く。
廊下と言っても、ただの廊下ではない。ロングギャラリーになっていて、両側の壁には様々な絵画や調度品が飾られている。
なぜ二人がこんな場所にいるのかと言えば、ガイセ卿が別室で飲み直そうと誘ったからだ。
マシューはアイリスのそばを離れるのが不安ではあったが、ガイセ卿に『これはアイリス嬢の戦だ』と言われてしまっては、それ以上なにも言えなかった。
もちろん、アイリスのそばには執事長とマルコをつけて、侯爵との話が終わったらマシューのもとに連れて来てくれるよう手はずを整えることも忘れていない。
「さあな。だが、アイリス嬢のことは心配いらん。あの入場を見ただろう! まるで女神が舞い降りたかのような神々しさだった! まったく、ただ者ではない」
軍学校の教官に『ただ者ではない』と評価されるというのも微妙なところだが、彼の言いたいことはマシューにも分かった。
自分が思っている以上に、彼女は強いのだ。
「はい」
マシューが神妙に頷くのを見て、ガイセ卿も深く頷いた。
「ところで」
ふと、ガイセ卿が足を止めて、廊下の真ん中で、マシューの方を振り返った。
「閣下には話さねばならないことがあります」
そのタイミングで廊下の陰から一人の人物が現れた。テオだった。
「なぜここに?」
その疑問には二人とも答えてくれなかった。
代わりに、ガイセ卿が廊下にかけられていた布を払った。そこには、大きな肖像画がかけられていた。
真っ白な髪、透き通る瞳を持つ、不思議な容貌の女性の肖像画だ。
「これは?」
「氷の魔女だ」




