第21話 君が俺を救ってくれた
マシューはアイリスを後ろから包み込むように抱きしめて、パチパチと爆ぜる薪を見つめながら、ぽつりぽつりと話し出した。
「君に話すべきことが……。いや、話したいことがたくさんある」
「はい」
アイリスは淡々と頷いてから、自分を抱きしめるマシューの腕にそっと頬を寄せた。
言葉でも表情でも伝えられない気持ちを、ちゃんと伝えたくて。
(私も聞きたいです)
その気持ちは、伝わったようだった。マシューはアイリスを抱く腕に、ぎゅうと力を込めた。
「……君と、出会った時の話だ」
* * *
俺が初めて君を見かけたのは、18歳の時だった。
王宮で開かれた舞踏会に、君も来ていただろう?
いや、君にとってはあまり居心地の良い場ではなかったな。出席していた貴族たちは、トラウトナー侯爵家の『氷の女』が珍しく社交界に出てきた、という噂でもちきりだったから。
「18歳でしたっけ?」
「お美しい方ですけどね」
「そろそろ嫁ぎ先を見つけないと、行き遅れてしまいますからね」
「ご両親も必死でしょう」
「先日は、ほら、あの伯爵家とは破談になったと……」
白状すると、そんな口さがない噂話を、俺は愛想笑いを浮かべて、ただ聞いていることしかできなかった。
公爵家の当主になったばかりの若造だった俺は、社交界で上手く渡り歩いていくために必死だったんだ。
軍学校を卒業して数か月後、俺の両親と兄が事故で死んだことは知っているだろう?
社交期を終えて、首都から領地へ向かう途中の馬車の事故だった。大雨の影響で脆くなっていた橋が崩れて、両親と兄を乗せた馬車ごと、濁流に落ちたんだ。
人には幸運だと言われたが、俺にはとてもそんな風には思えなかった。
父にはまだまだ教えてもらいたいことが山のようにあったし、母には何一つ孝行できなかった。いずれ兄が公爵家を継いだら、俺が支えていこうと思っていたのに……。
喪が明けて公爵家の当主になっても気落ちしたままの俺を見かねた国王陛下が、俺のためにわざわざ舞踏会を開いてくださったんだ。
だが、楽しいとは思えなかった。
国王陛下には『ここで相手を見つけて、さっさと結婚すればよい』と言われたが、色とりどりに着飾った令嬢たちを美しいと思うこともできず、誰と踊っても心が躍るようなことはなかった。
ぼんやりと、ただ、この時間が早く過ぎてほしい。
そんなことばかり考えていた。
君が俺の視界に飛び込んできたのは、そんな時だった。
君と踊っていた貴族の男が、尻餅をついて転んだんだ。
男は顔を真っ赤にして、君を指さして怒鳴りつけた。
「な、なにをするんだ!」
君は無表情のまま、何も言わなかった。
「わざと足をひっかけただろう!」
「いえ」
問われてようやく答えた君に、男がさらにいきり立った。周囲の人々もダンスの足を止めてヒソヒソと話し出した。
「やっぱり、『氷の女』ね」
「何をしにこんなところに出てきたのか」
「お相手に恥をかかせたというのに表情一つ変えないで……」
と、言いたい放題で。
俺と一緒に踊っていた令嬢も、
「嫌なら踊らなければいいのに」
と、顔をしかめていた。
「申し訳ございません」
君はそう言って相手の男性に手を貸そうとしたが、男はその手をパンと叩いて振り払った。
そして、
「気味が悪い」
そう吐き捨てるように言って、去って行った。
周りの貴族たちがダンスを再開していく中、君はダンスフロアの中心に取り残されて。
「さあ、私たちも」
「……ああ」
俺も促されてダンスを再開した。
「お可哀そうに」
ぽろりと、令嬢がつぶやいた。
だが、俺には、そうは思えなかった。
色とりどりのドレスがクルクルと舞うダンスフロアの中心で。
プラチナブロンドの髪を艶やかに結い上げて、瞳とおそろいのサファイヤのドレスに身を包み、しゃんと背筋を伸ばして立っている。
そんな君を見て、美しいと思ったんだ。
酷い男だろう?
君はきっと傷ついていたのに、そんな君を見て美しいと思うだなんて。
だけど、誰に何を言われても凛としていた君は、本当に美しかったんだ。
その日から、君のことが忘れられなくなった。
何をしていても、凛と立つ君のことが脳裏に過って。
同時に、なんだか馬鹿らしくなった。
美しいとも思わない令嬢の機嫌をとって、楽しくもない上っ面だけの会話に愛想笑いを浮かべる。
そんな時間を、心底無駄だと思った。
その日から、俺は愛想笑いをやめた。
それに、誘われるままに社交界に出ることもやめた。本当に必要な人脈を作るために、戦略として必要な場合を除いて、全ての誘いを断ることにしたんだ。
そう決めたら、出席すべき場は驚くほど減った。
とてもすっきりした。
俺は本来の自分を取り戻したようだった。
無口で不愛想で堅物で面白みのない男。それが俺だ。だが、そんな俺を慕ってくれる人や必要としてくれる人はいて。そういう人たちとの縁を大事にすればそれで十分だったと、気づいたんだ。
全て君のお陰だった。
君が俺を救ってくれたんだ。
君にもう一度会いたい。
俺は、何度もそう思った。
それが叶ったのは、数か月後にとある伯爵家の屋敷で開かれた夜会の席だった。
その日は軍学校時代の友人に誘われて、久しぶりに社交界に出た。卒業以来会っていなかった友人たちと顔を合わせて、すこし酔いが回るのが早かった。
少し酔いを醒まそうと、俺は庭園に出た。
そこに、君がいたんだ。
君は、小さなガゼボにぽつんと座っていた。
そろそろ肌寒くなってきたというのに、肩をむき出しにしたドレス姿で、相変わらず背筋をしゃんと伸ばして。
俺は思わず君に声をかけた。
「お隣よろしいですか」
と。
覚えていない?
そうだろうと思った。
ガゼボの中は薄暗かったし、俺は名乗りもしなかったから。
声をかけた俺の顔を見もせずに、君はただ無表情で、
「どうぞ」
と、答えただけだった。
向かいに座る勇気はなくて、俺は君の隣……といっても、だいぶ離れた場所に座ったけど、何を話せばいいのか分からなくて。
しばらく沈黙が続いた。
しばらくすると、君はドレスのポケットから懐中時計を取り出した。時間を確認して、小さくため息を吐いて、また時計をポケットに戻す。
「何かお約束が?」
思わず尋ねると、君は小さく首を横に振った。
「いえ。迎えの時間はまだか、と思いまして」
「迎え?」
夜会が始まって、まだ一時間程度しかたっていなかったから、おかしな話だと思った。それに、君を会場の中では見かけなかったから、来たばかりだと思ったんだ。
「私のような女がいては、皆さま楽しめませんから」
君は夜会の出席者に気をつかって、ずっと庭園で過ごしていたと知って、愕然とした。
まさか、侯爵家の令嬢がそんなことを、と。
「なぜ」
思わず問うた俺に、君はやはり無表情で。
「父が、結婚相手を見つけるまでは毎晩でも社交界に出ろ、と」
君は淡々と答えて、それっきり口を噤んでしまった。
余計なことを言ってしまったと、後悔していたんだろう。
しばらくすると迎えの時間になった。
君はガゼボのベンチから立ち上がって、淡々と、だが優雅にお辞儀をして帰って行った。
俺が君の父上に求婚状を送ったのは、その三日後のことだ。