第20話 愛してる
今日は晴れていたはずなのに。
魔法の糸をたぐって走り始めると、マシューの身体は吹雪の中に放り出された。
びゅうびゅうと吹き付ける風が、雪が、マシューから体温と体力を奪っていく。
それでも、彼は走り続けた。
「アイリス……っ!」
彼女を連れ戻すために──。
* * *
気が付くと、アイリスは再び洞窟の中にたたずんでいた。と言っても、テオの妻の墓であるあの洞窟とは違う。
壁も床も天井も、氷に囲まれている。
だというのに、不思議と寒くはない。不思議な場所だ。
『……アイリス』
誰かが彼女の名を呼んだ。
氷の壁の向こうからだ。
「誰?」
アイリスの問いに、その人は答えなかった。代わりに、氷の壁の中が仄かに光る。まるで、自分の居場所を示すように
「そこにいるの?」
氷の壁に触れると、触れた場所がポッと光った。そしてその光は、アイリスの指を伝い、腕を伝い、肩を伝い、そして心臓にたどり着いた。
「あ」
その瞬間、凍りかけていた心臓が、ドクンと音を立てて。そして、氷が解けるように、痛みも苦しみも消え去った。
「どうして?」
『ここでは、病も苦痛も、全て消える』
その声は、今度は心臓の中心から響いた。アイリスの身体を優しく揺らして響く声に、うっとりと身体の力が抜けていく。
「死ななくて済むの?」
『そうだ』
アイリスは、そのまま氷の上に横たわった。硬いはずの氷が羽毛のように彼女の身体を受け止め、ふわりと優しく包み込む。
まるで母親に抱かれているような温もりに、アイリスは身を委ねた。身体を丸めて、まるで子供のように。
『ここで、永遠に』
「永遠に……」
『眠れ』
アイリスは、声に導かれるまま、目を閉じた。
──キラリ。
彼女の胸の中で、また別の光が瞬いた。
『ちゃんと聞こえた。ありがとうって!』
あの宿のウェイターだ。
優しさを上手く受け取ることができないアイリスに、それでも優しくしてくれた。
感謝の言葉を口にできないアイリスに、それでも笑いかけてくれた。
──キラリ。
『どうか、諦めないで』
ハンナは、アイリスに勇気をくれた。
諦めなくていいのだと、教えてくれた。
自分の生きたいように生きていいのだと、教えてくれた。
──キラリ。
『これ以上、この人から奪わないで!』
あの女性は、アイリスを守ってくれた。
アイリスの大切なものを、一緒に守ってくれた。
──キラリ。
『幸せって、なんだろうな』
テオは、心の内を明かしてくれた。
大切な思い出と共に。切なくて、悲しくて、でも温かい、そんな気持ちを、アイリスと分かち合いたいと願ってくれた。
そっと、目を開く。
氷の天井の向こうに、あの人たちの姿が見えた。
死にたくない。
それが、アイリスの願いだ。
だが、これが、自分が望んだことだろうか。
一人きりで、ただ心地よいだけのこの場所で。
永遠を過ごす。
それが、自分の願いだっただろうか。
「……ちがう」
アイリスの脳裏に、走馬灯のようにすべてが駆け巡った。公爵邸を出てから今日までの、旅の全てが。
世界は広くて、美しくて。
たくさんの人が助け合いながら響き合いながら、逞しく生きている。
そして、あの人がいる。
『一緒に行こう』
そう言ってくれた。
あの人のことを知りたいと思った。
あの人に自分のことを知ってもらいたいと思った。
あの人と一緒に。
……もっと、ずっと、一緒に。
星空を見たいと思った。
「……ここじゃない」
彼女が生きたいと願ったのは、この世界ではない。
「……帰りたい」
そう、つぶやいた瞬間だった。
ガシャンとけたたましい音を立てて、氷の天井が砕け散った。
砕けた氷が、まるで星のようにキラキラと瞬きながら降り注ぐ。
「アイリス!」
ぽっかりと穴の開いた氷の天井から、あの人が呼んでいる。
アイリスは、ありったけの力をこめて腕を伸ばした。
『いいのか』
胸の真ん中で、また声が響いた。
『また苦しくて辛くて、死に怯える日々が待っているぞ。愛などという幻想に、いつか裏切られるぞ』
そうかもしれない。
『あの男も、一度はお前を裏切った』
そうだ。
『離縁してくれ』と、彼がそう言ったのだ。
「アイリス!」
もう一度、彼が呼んだ。
氷の天井の穴から身を乗り出して、必死の形相で、こちらに向かって手を伸ばしている。
髪を振り乱し、額に汗を浮かべ、服は雪だらけで。
(あ)
彼のこんな表情を見るのは、二度目だ。
「帰ろう!」
マシューが叫ぶ。
「一緒に帰ろう!」
彼の指先が、アイリスの指先に触れた。
「愛してる」
二人が固く手を握り合った瞬間、光が爆ぜた──。
* * *
気が付くと、アイリスはまた洞窟の中にいた。
だが、先ほどまでとはまるで様子が違う。
寒いのだ。
洞窟の入り口の向こうではびゅうびゅうと風が鳴り、隙間風がアイリスの元まで冷気を運んできている。地面はジトリと湿っていて、そこから徐々に体温を奪われていく感覚がある。
そして、アイリスの心臓の奥にわずかな痛みが疼いている。
帰って来たのだ。
こちら側の世界に。
「アイリス!?」
パチパチと目を瞬かせながら身じろぎをした彼女に、マシューが駆け寄った。
よく見ると、彼の隣では焚火がパチパチと音を立てている。アイリスが眠っている間に火を起こしてくれていたのだ。
「よかった」
マシューがアイリスを抱き寄せた。
二人とも毛皮のコートを着ているので直接肌が触れているわけではない。
だが、確かに彼の熱を感じて、アイリスの目頭が熱くなった。
涙を流すことも気持ちを伝えることもできないアイリスは、代わりに、力いっぱいマシューの身体を抱き返した。
それに気づいたマシューが、また彼女を抱く腕に力を込める。
二人はそうして抱き合ったまま、朝が来るのを待った──。
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次回から第3章です!
引き続き、どうぞお楽しみください!




