第2話 世界で最も美しい景色
アイリスが公爵邸を出て最初に向かったのは、首都だった。首都の中央駅からは、彼女の最終目的地である南の隣国へ向かう汽車が出ている。
彼女が患っている『氷心症』に治療法は存在しないが、症状を和らげる方法が一つだけある。それは、温暖な土地で安静に過ごすこと。
そのため、アイリスは南の隣国でホテルに滞在して残りの一年を過ごすことにしたのだ。
公爵領から東へ向かって馬車で数日の距離を、貸馬車を乗り継いで移動する。
途中の街では、貴族用の宿に泊まることができた。首都までの道のりにあるのは大きな街ばかりなので、泊る場所や馬車の手配は難しくなかった。
また、それらの支払いにも困ることはなかった。
出発に際して、執事長が少なくない額の小切手を準備してくれたからだ。
国内ならば銀行で簡単に換金できる。国外に出るときには別の通貨に両替する必要があるが、公爵のサインが入った口添え書も準備してくれたので、それほど難しくはないだろうと言われた。
また、執事長はアイリスのために護衛や付き添いのメイドを連れて行っても構わないと言ってくれたが、それは断った。
「残りたった一年の命ですから。必要ありません」
これを聞いた執事長はわずかに涙ぐみ、護衛の代わりにと言って魔力をこめた護符や魔法薬を持たせてくれた。 『氷心症』に効果はないが、腹痛止めや傷薬、体を暖かくする護符は一人旅にはありがたい。
「ご実家には、戻られないのですか?」
心配顔の執事長は、そう聞いてくれたが、その質問には黙って首を横に振った。
実家である侯爵家とはすでに没交渉で、嫁いでから一度も連絡をとっていない。うまく笑顔をつくることができないアイリスは、幼い頃から両親や親戚から疎まれてきた。同じ理由で、友人もいない。
寂しいと思わなかったわけではないが、今となってはこれで良かったのだと思うことにした。
(私が死んでも、悲しむ人は一人もいない)
その事実に、アイリスは心底ほっとしていた。
(私のことを誰も知らない土地で、一人で死のう)
彼女は、そう決めていた。
* * *
「お嬢さん、もう出発するのか?」
この町に来た翌日の早朝、アイリスは宿を出て手配した貸馬車を待っていた。そこに声をかけてきたのは、宿屋に勤めるウェイターの青年だった。
昨夜、アイリスの荷物を運んだり食事を運んだりしてくれた人だ。彼の出勤時間と出発時間が重なったらしい。
「ええ」
アイリスが短く答えると、青年は残念そうに眉を下げた。
「せっかく来たんだから、観光していけばいいのに」
彼女が一晩泊ったこの町は、西部では有名な観光地だった。馬車で数十分の距離に有名な湖があるのだ。その湖面は透き通るように美しく、湖畔に咲き誇る季節の花々を鏡のように写すので、まるで絵画のようだと言われている。
そして、この景色は『世界で最も美しい』と謳われているのだ。
アイリスも、一度だけ行ったことがある。幼い頃、家族と一緒に。
「興味がないので」
嘘だ。
本当はもう一度あの美しい光景を見たいと思っている。
(でも、もしも湖で発作が起こったら?)
せっかくの観光に来た人々の楽しい気分に水を差すことになってしまう。
アイリスは、できるだけ誰にも迷惑がかからないようにこの旅を終えたいのだ。
「そっかぁ、興味がないなら、仕方ないな」
そう言いながら、青年はアイリスの隣に並んだ。
なぜそうするのかが分からず首を傾げる彼女に、青年がニカリと笑う。
「見送りが一人もいないんじゃ、寂しいだろ?」
その優しさに、アイリスの胸がじわりと温かくなった。だが、やはりそれを表情に表すことも上手く言葉で伝えることもできない。
「そうね」
アイリスは素っ気なく返事をすることしかできなかったが、それでも青年はわずかに肩を竦めただけでその場にとどまった。
しばらくすると、道の向こうからガラガラと音を立てて貸馬車が近づいてきた。
「おーい! こっちだ!」
青年が大きく手を振って貸馬車を呼んだ。
その時だった。
心臓がドクリと音を立て、次いで寒気が全身を駆け抜けた。
(発作……!)
最初は小指の先ほど小さな痛みだったそれはじわじわと膨れ上がり、胸の中にこぶし大の氷の塊を呑まされたようなひどい痛みとなって襲ってきた。
「お、おい、大丈夫か!?」
胸を押さえてうずくまったアイリスに、青年が慌てて駆け寄る。
アイリスはうめき声も上げず、ぎゅうっと身体を丸めてかたく拳を握りしめた。そうして痛みが過ぎ去るのを待つことしか、彼女にできることはない。
ところが、一向に発作は治まらない。
こんなにひどい発作は、発症してから初めてだ。
「しっかりしろ……」
青年の声が徐々に遠ざかる。
もう一人、別の誰かの声も聞こえたような気がしたが、それを確認する前に私の視界は真っ暗になってしまった。
* * *
『アイリス!』
遠くから呼んでいるのは、お兄様だ。
馬に乗っている。自分の馬を買ってもらったと、浮かれていた、あの日のお兄様だ。
気が付くと、私も馬に乗っていた。
ただし、一人ではない。
私の後ろに乗って右手で手綱を握り、反対の手で器用に私の腰を支えてくれている人がいる。
お父様だ。
お母様も馬に乗って隣に並んで、悲しそうな表情で私を見ている。
『これでも、ダメかぁ』
私の顔を見たお兄様も、残念そうにうなだれた。
私たちの目の前には、美しい湖が横たわっている。鏡のような湖面には、湖畔に咲き誇る菫色の花と、まだ雪の残る山々が逆さに映っていて、まるで絵画のような美しさだった。
──ああ、そうだ。思い出した。
──あの日、お父様とお母様、そしてお兄様は、私のためにあの湖に行ったんだ。
──世界で最も美しい景色を見れば、私も少しは笑顔になるかもしれない、そう思って。
でも、だめだった。
この景色を見ても、私の顔色はピクリとも変わらず。氷のような表情を浮かべたまま、その景色をじっと見つめているだけだった。
これが、最後のチャンスだったのに。
お父様もお母様も、子供の頃から笑わない私をなんとか笑わせようと、いろいろなことを試してくれた。
何をしても微笑み返してくれない我が子を、それでも懸命に愛してくれたのだ。
それなのに、私は笑うことができなかった。
この日を境に、お父様もお母様も、そしてお兄様も、私に関わることをしなくなった。
私を、諦めたのだ。
美しい景色を背景に、お母さまがポロリと涙をこぼしていた──。




