第19話 あちら側の世界
アイリスは川の中を泳いでいた。
水底は虹色に輝いていて、水面ははるか遠い。
水の中にいるというのに息苦しくなくて、身体も冷えない。不思議な水だ。
彼女の手をとっているのは、小さな人のような生き物だった。背中に四枚の羽が生えている。子供の頃に詠んだ物語の挿絵に描かれていた妖精にそっくりだ。
「どこへ行くの?」
アイリスの問いに、妖精はニコリと微笑むだけ。
「帰らなきゃ」
きっと、マシューもテオも心配している。
だが、妖精はニコリと微笑むだけで、彼女の手を引いて泳ぎ続けた。
不思議な水に揺られながら、アイリスはそっと目を閉じた。
心地いい。
ふわふわ、ゆらゆら。
ずっと、ここにいたい──。
* * *
「あちら側?」
慌てるテオに対して、マシューは未だに状況がつかめていない。彼が聞き慣れない単語を問い返す間に、テオがよたよたと馬から降りた。ずいぶん急いで駆けてきたらしく、馬もテオも汗だくで息切れしている。
「今俺たちが暮らしている世界とは別の世界だ」
テオは適当に拾った木の枝を使って雪の上に何かを描き始めた。大きな円だ。さらにその中に不思議な文様を描いていく。
「この世界に重なり合うようにして存在するもう一つの世界。精霊や妖精が住む世界で、本来ならこちら側とは互いに干渉しない」
説明しながらも、テオの手はせわしなく動き続けた。文様の隙間を文字のようなもので埋めていく。その様子を、マシューも兵士たちも固唾をのんで見守った。
「こちら側から干渉できるのは、俺たち魔術師だけだ。あちら側から力を分けてもらって、こちら側の不可能を可能にする。それが魔術や魔法と呼ばれるものの正体だ」
「アイリスは魔女の呪いの影響を強く受けている。呪いも魔法の一種だ。だから、誘われてしまったんだろう。とにかく、あいつは今、あちら側のどこかにいる」
ふと、テオが手を止めて唇を噛んだ。
「早く連れ戻さないと、戻れなくなる」
マシューはようやく事態を呑み込むことができた。悠長にしている時間がない、ということも。
「どうすればいい?」
「迎えに行くしかない」
話している間に、心配顔のハンナと子供たちもやって来た。ハンナはテオが描いている円を見て、ハッとした表情を浮かべる。何が起こっているのかを察したのだろう。
「俺が行ってもいいが……」
そこまで言ってから、テオは苦笑いを浮かべて一つため息を吐いた。
「俺じゃ、ダメだろうな」
そして、テオはマシューをじっと見つめた。
「お前が迎えに行くんだ」
「わかった」
即座に答えたマシューに、兵士たちがざわめいた。彼らの主人は公爵家の当主だ。そんな危険な役目をさせるわけにはいかない。
「私が行きます」
名乗り出たのはマルコだ。
「旦那様はここでお待ちください」
「いや、私が行く。……そうでなければならない理由があるのだろう?」
問われて、テオは頷いた。
「あちらの世界は人間にとっては毒だ。苦しみも悲しみもない。ただ、心地よい世界……。帰ってくるためには、必ず帰るという強い意思がなければならない」
「アイリスに、こちら側のことを思い出させなければならないんだ。そのためには、俺やあんたじゃ足りない」
つまり、アイリスにとって帰ってくるという理由たり得る人物が迎えに行かなければならないということだ。それならば自分は役者不足だろうと納得して、マルコは一歩下がった。
やはり、マシューが行くべきだと、この場の誰もが考えた。だが、その当人は納得できていない様子で眉を寄せている。
「俺ではダメだ」
これにはハンナがカッと肩を怒らせた。
「あんた!」
怒りのままにマシューに掴みかかろうとするハンナを、テオが押しとどめた。
「お前の言う通りだ。今の腑抜けたお前じゃ、アイリスを連れ戻せない」
ざく。
雪を踏みしめて、テオがマシューに歩み寄った。そして、その胸倉をつかみ上げる。
「アイリスはお前を愛してるんだぞ」
しん、と沈黙が落ちた。
誰も何も言わず、ただ見守ることしかできない。
「あいつは、お前がいるから死にたくないと思った。……お前と一緒に幸せになりたいと、心から願ってるんだ。お前が愛していると伝えれば、きっと彼女は戻って来れる」
マシューは何も言わず、ふいとテオから視線を逸らした。
「……彼女が、そう言ったのか?」
「馬鹿野郎!」
今度は、テオがマシューの頬を殴った。
殴られたマシューは雪の上に倒れ込み、それにつられるようにテオはマシューの上に馬乗りになる。
「旦那様!」
一人の兵士が止めに入ろうとしたが、それをマルコが押しとどめた。彼には分かったのだ。今、ここが、あの二人の未来を決める分水嶺だ。
「分かるだろうが!」
マシューに馬乗りになったテオが叫ぶように怒鳴りつけた。
「言葉も表情も足りない。だけど、あいつが心の中で何を思っているのか、お前にだって分かってるだろう!」
テオの瞳から、ポロリと涙がこぼれた。
「まだ間に合うんだ、お前たちは」
ポロポロと零れ落ちる涙をぬぐいもせず、テオは再びマシューの胸倉をつかんで、その身体を揺すった。
「愛しているなら、愛していると言え」
「あいつが言えない分も、お前が言え」
「頼むよ……」
最後の言葉は、雪の中に消え入りそうなほどか細くて。それでも、確かにマシューに届いた。
「すまない」
マシューが言うと、テオはその肩を小突いた。
「違う」
「……ありがとう」
「言えるじゃないか、この堅物鈍感朴念仁公爵」
ありったけの悪口を浴びせたテオはグイっと涙を拭いて立ち上がり、マシューの腕を引いた。
「道は俺が作る。お前は、ただまっすぐ走れ」
「わかった」
「帰りも同じだ。あいつの手を離すなよ」
テオはマシューを円の中心に立たせて、自分はしゃがみこんで円に触れた。
すると、ほのかに光り始めた円がクルクルと回り、やがて一本の糸になった。
糸の先は、霊山の山頂近くに続いている。
「行け!」
マシューは、その糸をたぐって、走り出した。
その姿は、雪の中に溶けるように消えて、すぐに見えなくなった──。