第18話 揺れる水面
テオがマシューに黙ってアイリスを連れ出したのは、その翌日のことだった。
マシューは兵士たちと一緒に狩りに出ている。今日は天気が良いので、雪原に出ればウサギやシカを狩れるだろうと言って出かけて行った。
「せめて置手紙を……」
アイリスはそう言ったのだが、テオが
「急ぎだ」
と言うので、慌てて支度をして彼の馬に二人で跨った。
「どこへ行くんですか?」
「……着けば分かる」
テオはそれだけ言って、馬の腹を蹴った。
今日は快晴だ。
雪原の中、馬は雪を蹴り上げながら進み、舞い上がった雪は日の光を反射して輝いている。
その様子を、アイリスがキラキラとした瞳で見つめた。
「あんたには馬の乗り方も教えてやらないとな」
「私にできますか?」
「大人しい馬なら大丈夫だろ」
「では、マシュー様に教えていただきます」
淡々と、だがはっきりと言ったアイリスに、テオが苦笑いを浮かべる。
「そこは、俺に習うって言うところだろ」
「マシュー様は軍学校の出身ですから。馬の扱いはあなたより上手いと思いますが」
「そういうことじゃないんだけどなぁ」
などとぼやきながらも、テオは馬を進め続けた。
小一時間して到着したのは小さな丘で、南側に回ると洞窟があった。丘はすっぽりと雪に包まれていたが、南側は急な崖になっていることもあって、洞窟の入り口は塞がれていなかった。
「もう少し雪が深くなると入れなくなる。その前に、あんたを連れてきたかったんだ」
中に入ると、洞窟は下へ深く続いていた。
テオの手を借りながら、ゆっくり、奥へ奥へと進む。
洞窟の底は泉で、そこには幻想的な光景が広がっていた。
その水は驚くほど透明度が高く、水面が青とも翠とも呼べない不思議な色で、宝石のようにキラキラと輝いている。
天井にいくつかの穴が空いていて、そこから差し込む日の光を反射しているのだ。
よく見ると、泉の底には点々と光るものが見えた。鉱物だろうか。それらが光を乱反射して、洞窟の中はさながら万華鏡のようだ。
「きれいだろ」
不思議な光景に圧倒されるアイリスを見つめて、テオがじわりと眦を下げた。
しばらくアイリスと同じように不思議な光景を眺めていたテオは、ややあって懐から何かを取り出した。
色紙で作った鳥だ。
赤、青、緑、三羽の鳥の形を、丁寧な手つきで整える。
そして、泉の傍らに跪き、三羽の鳥を泉に浮かべた。
しばらくゆらゆらと水面を泳いだ鳥は、やがて湖の底に消えて行った。
「……あいつの墓だ」
誰のことを指すのかはすぐに分かった。『氷心症』で亡くなった、テオの妻だ。
「あいつ……イルゼはこの泉が好きだったから、ここに散骨した」
テオが泉の水面に触れると、乱反射していた光がキラキラと揺れた。
「イルゼは、いい女だった」
アイリスは、じっと彼の言葉に耳を傾けた。
「幼馴染だったんだ。俺と母さんは首都の狭いアパートで暮らしていて。彼女はその隣に住んでいた。小さな頃からずっと一緒にいて、結婚したのは、まあ、成り行きみたいなもんだった。だけど、俺は多分、あいつを愛してた」
「子どもが生まれた後、俺は急に北へ帰らなければならないという焦燥に駆られた。俺の血が、そうさせたんだと思う。だが、急にそんなこと言われても困るよな。だって、三つ子が生まれたばかりだったんだから」
「でも、あいつは……。『あなたの魂が呼ばれているのね。それじゃあ、仕方がない』って言ったんだ。」
「北へ移り住んで、助けてくれる人もほとんどいないこの土地で、あいつは逞しく生きてた」
「それなのに……」
テオが唇を噛みしめた。
彼は、その愛する妻を救うことができなかったのだ。
どれほど悔しかっただろう。
どれほど悲しかっただろう。
アイリスの胸がぎゅうと締め付けられた。
ちゃぷん、と軽い音を立てて、テオが水面を撫でる。まるで妻の肩を撫でるように、優しく、愛おしげに。
「最期の時、あいつは笑ってた。胸が痛くて苦しかったはずなのに。『幸せになって』と、俺と子供たちに微笑みかけて、穏やかに逝った」
振り返ったテオの透明な瞳は、ゆらゆらと揺れていて、泉の水面と同じように青とも翠とも呼べない不思議な色でキラリと光った。
「幸せって、なんだろうな」
アイリスは何も言えなかった。
分からないから。
愛も幸せも、彼女には何も分からない。
彼女もまた、それを探す旅の途中なのだから。
「……しめっぽくなったな。悪い」
「いえ」
「うん。……あんたを連れて来てよかった」
「え?」
「あんたを見てると、答えが見つかる気がするんだ」
「幸せ、の?」
「ああ」
テオがくしゃりと笑った。
その切ない表情を見ていられなくて、アイリスは目を逸らしてその場にしゃがみこんだ。
テオと同じように水面に手を伸ばす。
「こんな『氷の女』の顔を見ていたって幸せなんか分かりませんよ」
「そうか? けっこう、コロコロ変わってると思うけどな、表情が」
テオがアイリスの顔を覗き込む。
「今も。俺の話を聞いて、一緒に悲しんでくれてる」
「分かるんですか?」
「そりゃあ、そうだろ」
あっけらかんと言われて、また、アイリスはテオの顔を見ていられなくて顔を逸らした。
「ははは。照れてる照れてる」
頬が熱くなる。
といっても、他人から見れば相変わらずの無表情なのだろうが。
それでも、彼には分かるらしい。
それが嬉しいやら恥ずかしいやら、アイリスは何とも言えない気持ちになって俯いた。
水面に映る顔は、やはりいつも通りの無表情だ。
ちゃぷん。
不意に、水面が揺れた。
ちゃぷん、ちゃぷん、ちゃぷん。
揺れは徐々に大きくなって、キラキラと輝いていた水面が、万華鏡のようにクルクルと回る。
水底で輝いていた鉱物の光が、まるで泳ぐように集まって、一つの大きな塊になって。
どぷん。
アイリスを吞み込んだ──。
* * *
マシューと兵士たちは、夕方になる前に集落に帰ることができた。
狩りの成果は上々だった。
ウサギを四匹、シカを一頭。
これだけあれば、全員で食べても一週間はもつし、保存用の干し肉も作れる。
早く暖かい家で休みたかったが、今日は獲物の処理を先にしなければならない。血抜きはしてあるが、早々に内臓を取り出さなければ肉が臭くなってしまう。
そんなことを考えながら家に向かう途中、馬に乗ったテオが集落の向こう側から駆けてきた。額に汗を浮かべて、必死の形相で馬の腹を蹴っている様子を見れば、緊急事態だということはすぐに分かった。
マシューも慌ててテオに駆け寄る。
「何があった」
「アイリスが……」
ひゅっと、喉の奥を氷の塊が通り過ぎたように、一気に身体が冷えた。
彼女の身に、何かが起こったのだ。
テオは、ぜぇはぁと息を整えてから、マシューの肩をつかんだ。
そして、叫ぶように言った。
「あちら側に、連れて行かれた……っ!」