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第17話 北の星空



 その日、掃除はまったく終わらなかった。


 まず物干し竿の立て方が分からず右往左往し、埃を払い始めたら自分たちの身体が埃まみれになって咳が止まらなくなり、拭き掃除を始めれば家具も床もビショビショになってしまったからだ。


 午後になると、二人はにっちもさっちもいかない状況に降参し、ハンナに教えを請うた。

 埃まみれの二人にハンナは腹を抱えて笑いながら、丁寧に掃除の仕方を教えてくれた。


 日が暮れるまでになんとかベッドが置いてあるロフトの掃除だけは終えることができたが、キッチンや食卓の掃除は終わらなかった。仕方がないので、テオの家で夕飯をとらせてもらってから、二人は肩を落として家路についた。


 テオには、


『明日からは食事も自分たちで準備するんだぞ』


 と釘を刺されてしまった。


「掃除があんなに難しい仕事だとは知りませんでした」


 アイリスがぽつりとこぼすと、マシューも頷いた。


「かなりの専門知識を要する仕事だ。戻ったらメイドの給与を見直そうと思う」

「そうですね」


 ザクザクと雪の道を踏みしめながら、静かな集落の中を進む。いくつかの家に明かりが入っているのは、案内人や兵士たちが泊めてもらっている家だ。アイリスたちと同じように、彼らも今日は忙しかっただろう。


 ふと、マシューが足を止めて空を見上げた。アイリスも同じように足を止めて彼の視線の先を追いかけると、空一面に星々がきらめいていた。


『北では空気が澄んでいるから、星が近く見えるんだよ!』


 子供たちがそう教えてくれた通り、はるか遠いはずの星々が、手を伸ばせば届いてしまいそうなほど近くに感じられる。


「あれがベテルギウス、プロキオン、シリウスだ」


 マシューが指さしたのは、一等輝く三つの星だった。


「あれが、北極星」


 アイリスは、彼が指さす方向がよく分かるようにマシューのすぐ傍らに近づいた。

 

「カストル、カペラ、アルデバラン……」


 淡々と、だが少し楽しそうな声音でマシューが一つずつ指さしながら星の名を教えてくれる。アイリスは一つずつ相槌を打ちながら聞き入った。


「詳しいのですね」

「軍学校で習った」


 これには首を傾げた。軍の訓練と星とにどんな関係があるのだろうか、と。


「星の位置は何があっても変わらない。だから、今立っている場所から見える星の位置と角度が分かれば、自分の位置を正確に把握することができる」

「では、道に迷っても星を見れば自分のいる場所が分かるのですね」

「その通りだ。行軍では道のない場所を通ることも少なくない」

「それで、星について学ぶのですね」


 アイリスは感心して息を吐いた。白い息がマシューの持っているランプの明かりに照らされて、ふわりと舞った。


「……冷えるな」

「はい」

「帰ろう」


 もう少し、このまま。

 星のことを教えてもらいたかった。


 だが、やはりアイリスはその気持ちを口に出すことができない。


「……はい」


 少し逡巡した後に漏れた返事は、やはり氷のように冷たかった。


「……明日、テオ殿に星座の本を借りよう」

「え?」

「魔術師は占いのために星を読むと聞いたことがある。星について詳しく載っている書籍も持っているだろう」


 言いながら、マシューは再び歩き始めた。アイリスもそれに続く。


「明日の夜、天気が良ければ……。もっと厚着をして星を見ればいい」


 アイリスは驚きに声も出なかった。


 もっと星を見たかった。もっと教えてほしかった。

 その気持ちを口に出したわけではないのに、マシューは気づいてくれたのだ。


 嬉しくて、でも、その気持ちを言葉にすることができなくて。もどかしい気持ちを抱えながらも、アイリスの胸は幸福感でいっぱいだった。


 マシューとこんなにたくさんの話をしたのは、今日が初めてだった。ほとんどが家の掃除という仕事に関する、必要なやり取りでしかなかったが。

 それでも、こんなに会話が続いたのは初めてだ。

 星の話に至っては、仕事とはまったく関係のない雑談だ。しかも、次の約束までしてくれた。


 テオが何のために二人に夫婦として暮らせと言ったのかは分からない。だが、彼のおかげでマシューとの関係が飛躍的に改善していることは事実だった。


 この幸運に、アイリスは心の中で何度もテオに感謝した。


 とはいえ、完全な夫婦になれたわけではなかった。

 せっかくベッドをきれいにしたのに、マシューは頑としてベッドで眠ることを拒否したのだ。


 アイリスはベッドで、マシューはリビングの床で眠る。

 この距離感だけは、数週間が経過しても変わることはなかった。


 それが寂しい、と。

 アイリスは口に出すことができなかった。




 * * *




 数週間後。

 さらに雪深くなった森の中、テオとマシュー、そして兵士たちは狩りに出ていた。


「おい」


 その途中、一人きりになったマシューにテオが声をかけた。地の底を這うような低い声で。

 彼が何やら怒っているということにマシューはすぐに気が付いたが、その理由がさっぱり分からず首を傾げた。


「母さんから聞いたぞ」

「何を」

「お前、アイリスと一緒に寝てないらしいじゃないか」

「……当たり前だ」

「あ?」

「既に離縁しているんだ。同じベッドに入るわけにはいかない」

「なんでだよ……」


 テオが頭を抱えた。


「俺は、夫婦として暮らせって言っただろうが」


 マシューは何も言い返せず、黙り込んだ。彼の言う通り、夫婦として暮らすのならば同じベッドで眠るべきだ。


 だが、そんなことはできない。


「離縁してくれ、と言ったのは俺だ」

「何か月も前の話だろう」

「だが、一度言った言葉は取り消せない」

「だいたい、なんで離縁なんかしたんだよ。北のはずれまで追いかけてくるほど大切だったなら、最初から手放さなきゃよかっただろう」


 言われて、マシューはギュッと唇を噛みしめた。


「離縁の理由は? あいつが氷のように冷たい女だからか? それとも、不治の病にかかったからか?」

「違う!」


 思わず叫んだマシューを、テオが見つめる。氷のように透き通る瞳に見つめられて、マシューは何もかも見透かされているような気分になった。

 テオの視線から逃れるように目を逸らす。


「……俺は、彼女に相応しくない」


 ポツリとこぼしたきり、マシューは肩を落としてうなだれてしまった。

 まるで子どものように肩を丸める姿に、テオが呆れた表情を浮かべる。


「……そうか」


 ややあって、テオは一つ頷いてから踵を返した。


「それじゃあ、彼女は俺がもらう」


 ザクザクと雪を踏みしめながら遠くなっていく背中を見つめながら、マシューは何も言えずに佇むことしかできなかった。



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\新作投稿はじめました/

ある公爵令嬢の死に様

彼女は生まれた時から
死ぬことが決まっていた

まもなく迎える18歳の誕生日
国を守るために神にささげられる

生贄となる

だが彼女は言った

「私は死にたくない」

 

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