第16話 呪いを解くために
「彼女が発症したのは、ここに移り住んでから一年後のことだった」
テオが分厚い日記帳を開いた。
びっしりと書かれているのは、彼の妻の様子ばかりだ。発症してから、彼女の経過を丁寧に記録していたものだろう。
「薬で発作を軽減することはできたが、根本的な治療はできない。俺もあんたたちと同じように氷の魔女の呪いを解くことを考えた」
次にテオが取り出したのは、皮の表紙の古い本だった。
「魔女がこの土地に呪いをかけたのは約二千年前。あの霊山の中央で儀式を行ったと、伝承が残されている」
彼が指さしたページには、氷の魔女と思われる女性の絵が描かれていた。氷に囲まれた洞窟の中で杖を手に両手を掲げている。
「一年かけて、俺は呪いを解く方法を突き止めたが……」
そこで言葉を切ったテオが、小さく息を吐いた。
「……間に合わなかったのか?」
マシューの問いに、テオは曖昧な表情を浮かべた。
「まあ、そんなところだ。とにかく、呪いを解くことはできず、彼女は死んだ」
(なんて、悲しい……)
彼は愛する人を救おうと必死の思いで呪いを解く方法を探したのに、その人を救うことができなかったのだ。
アイリスは言葉を失って俯いた。
「その後も呪いを解いていない理由は?」
マシューの問いに、テオは呆れた表情を見せた。
「お前、人の心がないのか?」
「なぜだ。妻は救えなかったが、氷の魔女の呪いを解けば他の『氷心症』の患者は救われるんだろう?」
「そう、だけどなぁ」
テオには妻以外の患者のために苦労する義務はない。
妻を救えなかったのに、その他大勢の人を救う。それをためらう気持ちは、一人の人間としてアイリスにも理解できた。
だが、寒さの厳しい土地で暮らす人々を助けるために魔法を使って様々な道具や薬を作っている、というテオの人物像を思えば、今も呪いを解かずにいることは不可解だ。
「理由は簡単だ。呪いを解くためには『氷心症』の患者を、呪いの中心に連れて行かなきゃならない」
それならば、これまで呪いを解かなかったことに納得できる。そもそも『氷心症』の患者は数が少ないし、ほとんどの患者は寒い場所を避けるのだから。
「あんたたちが協力してくれれば、呪いは解ける」
アイリスとマシューは顔を見合わせて頷いた。
「ただし、実行するのは暖かくなってからだ。冬の間は霊山に入ることはできない」
これにも頷いた。
これからさらに寒さが厳しくなる。霊山に入るには雪が解けるのを待たなければならないだろう。
だが、そうだとすると、もう一つ疑問がわいてきた。
マシューも同じことに思い至ったらしく、眉を寄せる。
「なら、ここへ来るのはもっと暖かくなってからでも良かったんじゃないのか?」
もしも、このことをテオが先に教えていてくれたら。雪が解けるまでもっと暖かい場所で過ごす、という選択肢もあったのだ。
「下準備が必要なんだよ」
「下準備?」
「ああ、言っただろ。あんたたちの協力が必要だって」
テオがニヤリと笑うので嫌な予感はした。だが、たとえ何を言われたとしても、呪いを解くためならば何でもする。
この時のアイリスは、そう思っていた。
* * *
「……」
「……」
マシューとアイリスは、二人きりの家の中で途方に暮れていた。
『二人には、ここでは夫婦として暮らしてもらう』
翌日、テオはそう言って、二人をこの家に連れて来たのだ。
集落の真ん中くらいに位置する、小さな家だ。
寒さをしのぐために二重になっている玄関扉を開くと、そこはリビングで、暖炉、テーブル、椅子など生活に必要なものが並んでいる。家の中に間仕切りはなく、はしごのかかっている小さなロフトの上にベッドが置いてあった。
一部屋しかない、本当に小さな家だ。
かつて住んでいたのも、一組の老夫婦だったという。
今日からこの家で、二人は夫婦として暮らさなければならない。
テオには既に離縁していることや、結婚しているときも仮面夫婦だったことなど事情を話したのだが、
『呪いを解くためだ』
と言われてしまっては、二人ともそれ以上反論できなかった。詳しい理由は教えてもらえなかったが、呪いを解くためには彼に従うしかないのだ。
また、マルコや他の兵士に生活面で助けてもらうことも、基本的には禁じられてしまった。
そもそも、彼らは増えてしまった食い扶持を賄うために狩りをしたり、薪を割ったり、生活用品を作ったり、とても忙しくなる。
自分のことは自分でやったうえで助け合わなければ、この土地で暮らすことはできないのだ。
「……やはり、お帰りになられてはいかがですか?」
先に気を取り直したのはアイリスだった。
ここまで連れて来てくれただけでも申し訳ないのに、やはり、こんなことにマシューを付き合わせることはできない。そう思ったのだ。
だが、その言葉にマシューは即座に首を横に振った。
「まずは掃除だ」
そう言って、マシューはハンナから借りた掃除道具を手に取った。
基本的な手入れはしてあるとはいえ、長年使われていない家の中は埃っぽい。
「……はい」
公爵家の当主に掃除をさせるなど恐れ多い話だが、彼が付き合うと言うのなら、アイリスはそれに従うほかない。
といっても、高位貴族である二人は掃除などしたことがない。
並べられた道具の使い方が分からず頭を抱えたが、悩んだのはわずかな時間だった。
「メイドたちの仕事を思い出そう」
マシューが、そう提案してくれたのだ。
二人は必死に記憶をたどり、いつも家の中を清潔にしてくれていたメイドたちの仕事ぶりを思い浮かべた。
「これを使って、埃を落としていたと思います」
アイリスがはたきを手に取ると、マシューも頷いた。
「この布は、家具や床を拭くのに使うのだろう」
マシューが雑巾を手に取り、バケツの中を覗き込む。
「だとすれば、この容器は、布を水で濡らすために使うべきだ」
「布も水も、キレイなところを拭くときと床を拭くときで分ける必要がありますね」
「だから容器が二つあるのか。布も何枚かある」
「このブラシは……」
「分からんな」
「では、これは後回しにして、後でハンナさんに聞きましょう」
「埃を払うなら、リネン類や絨毯は外に出すべきか?」
「そうですね。天気の良いうちに外に干した方が良さそうです」
「そういえば、メイドたちは中庭に棒のようなものを立ててシーツを干していたな」
「物干し竿ですね。この家にも備え付けられているかもしれません。庭を探してみましょう」
「では、リネンと絨毯を干してから、高いところから順に埃を払おう。その後で拭き掃除だ」
「承知しました」
感情を表す必要がなければ、アイリスも饒舌に話すことができる。二人は未知の道具を前に、淡々と話合いながら段取りを決めていった。
夫婦らしい雰囲気など一つもない。
それでも、公爵家の大きな邸宅で暮らしていた時より、マシューとの距離をずっと近く感じることができた。