第14話 北の霊山
翌日、アイリスたちが食事のためにリビングに下りると、にこやかな笑顔を浮かべるテオが待っていた。
「よう、おはよう」
と、まるで友達のような挨拶をするので、アイリスはどう返事をすればいいのか分からない。マシューの方は、眉間にしわを寄せてテオを睨みつけている。
それを見たテオが腹を抱えて笑い出すので、アイリスはハラハラと二人の様子を見守った。ここに兵士はいないので昨日のようなことは起こらないだろうが、マシュー自身が彼の無礼に腹を立てる可能性だってあるのだ。
「昨日は悪かったよ」
テオは慣れた様子で村長夫妻と食卓を囲んでいた。
「さあさ、お二人もどうぞ」
村長の奥さんに促されて、アイリスとマシューも同じテーブルについた。マシューは渋々と言った様子だったが、快く泊めてくれた村長夫妻の好意を無下にはできない。
「いただきます」
テーブルには焼き立てのアップルタルトに、玉ねぎとエールのスープ、砂糖をたっぷり使ったショートブレッドが並んでいる。
どれも美味しそうだ。
貴族の食卓とはマナーが違うが、それほど戸惑いはなかった。
旅に出た初めの頃は庶民の食卓というものにおっかなびっくりしていたアイリスだったが、さすがに慣れた。すべての食事を一つのスプーンで済ませるのは理に適っているし、ざっくりと盛り付けられただけの料理も美味しい。むしろ、盛り付けや給仕に時間がかからない分、温かいうちに食べられるのでありがたいくらいだ。
スープの器を手に取ると、普段使っている器とは少し様子が違うことが分かった。
不思議な文様が刻まれている木製の器は、ほのかに赤く光っている。
アイリスが首を傾げると、テオがニヤリと笑った。
「俺が作った。スープが冷めにくくなる魔法がかかっている器だ」
なるほど、とアイリスは感心した。
そんな魔法があれば、この寒い土地の人々は大助かりだろう。
「俺の家に来たら、他にもいろいろ見せてやれるぞ」
テオが言うと、マシューが眉を吊り上げて彼を睨みつけた。
「呪いを解く方法はないんじゃなかったのか」
「嘘だよ」
あっけらかんとしたセリフに、アイリスも驚いてショートブレッドを皿の上に取り落としてしまった。
「は?」
マシューの低い声にも、テオは怯まない。
「ちょっと意地悪してみただけだ。方法がないなら、わざわざ迎えに来たりしない。母さんだって君をそそのかしたりしなかったさ」
確かに、彼の言う通りだ。
方法がないなら、彼の母親はアイリスに『諦めないで』とは言わなかっただろう。そんな無責任な人には見えなかった。
「ただし、簡単じゃあない。北の霊山まで来てもらわなきゃならないし。……ここから先は、厳しい旅になる。それでもいいのか?」
今度は真剣な顔で言うので、アイリスとマシューは顔を見合わせた。だが、答えは決まっている。
「はい」
アイリスの返事に、テオが深く頷いた。
* * *
そこからは、確かに厳しい旅だった。
吹雪にあって思うように進めず、山の中で野宿を強いられることもあったし、腹をすかせたオオカミに襲われることもあった。アイリスが発作を起こして足止めされることも。
だが、アイリスが不安を感じることは一度もなかった。
マシューが常に彼女の隣にいてくれたからだ。
テオに出会うまでマシューはアイリスとは離れた場所で馬を進めていたのだが、テオと合流してからはアイリスの乗るソリのすぐ隣に並ぶようになった。
野宿をするときも彼女のすぐ隣で眠り、オオカミに襲われた時には彼女を自分の馬に乗せて逃げてくれた。発作が起こった時にはすぐにテントを張って火を起こし、体を温める間もそばにいてくれた。
どうやらテオのことをアイリスに近づけまいとしているらしいことは分かったのだが、アイリスにはその理由が分からなかった。
こっそりマルコに聞いてみたりしたが、
『さ、さあ。どうしてでしょうねぇ』
と、あいまいな答えしか返ってこなかった。他の兵士に聞いても同じなので今度はテオに聞いてみようとしたが、マシューに阻まれてしまって彼と二人きりで話をすることはかなわなかった。
最初の数日はこのことが気になったアイリスだったが、すぐに気にするのをやめることにした。
そんなことで悩んでいるのはもったいないと思ったからだ。
どんどん深くなっていく雪の中を進むたび、見える景色が変わっていく。
空の色も、山の形も、夜の星も。
初めて見る風景、初めて出会う動物、初めて見る星座に、アイリスは胸を躍らせた。
世界がこんなにも広くて美しいということを、彼女は知らなかったのだ。
(北へ来て、よかった……)
寒さのせいで発作が起こる頻度は多くなったが、そんなことは些末な問題だと思えた。
(例え呪いが解けなくても)
この旅路は価値のあるものだと思えた。
そうして二週間、ひたすら北へ進み、とうとう北の霊山のふもとにたどり着いた。
霊山の周囲には樹海が広がっていて、その手前には凍り付いた湖が横たわっている。
遠くから見た時には確かに山のように見えたが、ここまで近づくと真っ白な壁がそびえたっているようだ。見上げても山頂は雲に隠れて見えない。
しんしんと降り積もる雪のせいばかりではなく、この土地には静謐な空気が広がっていた。
「こっちだ」
テオに案内されたのは、湖のほとりだった。数件の家がならぶ集落になっていて、その向こうには田園が広がっている。
「こんなところに集落が」
アイリスが思わず漏らすと、テオは苦笑いを浮かべた。
「今はもう、俺の家族しか住んでないけどな」
人が暮らすには、あまりにも厳しい土地だ。かつてここに住んでいた人々が土地を捨てて去って行ったのも、苦渋の決断だっただろう。
そんなことを考えていると、集落の方から声が聞こえてきた。
「おーい!」
「とうさーん!」
「おかえりー!」
可愛らしい、三人の男の子の声だ。
「おーい!」
テオが手を振り返すと、男の子たちは飛んで跳ねて喜びをあらわにした。
それを見たマシューが驚きに目を見開いて固まっている。
「……子どもがいたのか」
「言ってなかったか?」
アイリスもテオと同じように首を傾げた。
テオには三人の子どもがいる。それはアイリスも彼の母親から聞いて知っていた。マシューも聞いているとばかり思っていたが、どうやら知らなかったらしい。
「……」
マシューがブスッと唇を尖らせて黙り込む。
その隣で、マルコが両手で顔を覆った。他の兵士たちも複雑そうな表情を浮かべている。
その様子を見て、テオが腹を抱えて笑った。