第11話 魔術師
一週間後、彼らは北へ向けて出発した。
アイリスは馬橇に、マシューと二十人の護衛兵は馬に乗って、雪道を進む。
マシューはこの一週間で、アイリスを連れて安全に北へ向かうためのあらゆる準備を整えてくれた。
分厚い絨毯を敷いた上に幌を付けた馬橇、雪道に慣れた馬、案内人、いざというときに乗る軽いソリとそれを引くための犬、分厚い毛布、湯たんぽ、冬用のテント……。マシューはアイリスの世話をする女性まで雇おうとしたが、それは丁重に断った。
また、この一週間の間に方々に連絡をとって公爵家の領地管理や諸々の仕事を人に任せたらしい。『公爵家には優秀な人材がいる。当主が数か月程度不在になったところで問題にはならない』と言っていた。とはいえ、公爵領に帰った後に訪れるであろうしわ寄せのことを想像すると、アイリスは申し訳ない気持ちになった。
公爵家の兵士も付き合わせることになってしまって申し訳なく思ったが、彼らは嫌な顔一つせず付いてきてくれることになった。
そのうちの一人がマルコだ。
アイリスが公爵家を出発してから、すぐ近くでずっと彼女を見守っていてくれた人だ。彼のお陰でマシューと再会を果たすことができたと言っても過言ではなく、アイリスは感謝の念を抱くとともに、彼に深い信頼を寄せるようになっていた。
そのマルコがアイリスの乗るソリの横で馬を進めながら、心配そうな表情を浮かべている。
「奥様、やはり幌を張りましょうか?」
雪が降っているとはいえ、吹雪と言うほどでもない天気だ。毛皮のコートの上に毛布もかぶっているし湯たんぽも持っているのでそれほど寒さは感じない。唯一露出している顔は冷たいが、これくらいなら耐えられないほどではない。
馬橇に幌を張ると馬に負担がかかってしまうので、できるだけ幌を張らずに進んだ方がいいと案内人に言われているのだ。
「問題ありません」
アイリスが淡々と答えると、マルコはやはり心配そうな表情を浮かべながらも頷いた。そして、ちらりと列の先に目をやった。
そこには、愛馬にまたがるマシューがいる。
あの夜、分かり合えるような兆しを見せはしたが、二人の距離感はこの一週間でそれほど変化していなかった。
マシューは旅の支度で忙しかったし、アイリスもソリと馬の扱いを習うので忙しかった。雪道では何が起こるか分からないから、最低限の移動は自分でできるようになった方がいいと案内人に言われたからだ。
これが意外に楽しくて、アイリスは夢中になって習っていたので夜は疲れてぐっすり眠ってしまい、あの夜以降マシューと二人きりで話す機会はなかった。
宿の食堂で一緒になることはあったが、他の宿泊客や兵士に囲まれているのでもちろん二人きりにはなれない。食事の席では、二人は淡々と必要な報告や連絡をするだけで、夫婦らしい会話など一つもしなかった。
(夫婦じゃないし、仕方ないわ)
時折忘れそうになってしまうが、マシューとアイリスはすでに離縁しているのだ。本当なら、こうしてマシューがアイリスのわがままに付き合ってくれるのもおかしな話なのだが、その理由を問いただすことはアイリスにはできなかった。
疑問を口に出せない、というよりも、勇気が出なかったから。
きっと、何かしらの特別な想いがあってそうしてくれているのだろうということは分かっている。
だが、もしも……。
(ただの義務だと言われたら……)
それはそれで悲しい。
アイリスは、今のままの曖昧な関係のままでいる方が、お互いに楽だと思っていた。
だが、それに困ったのは兵士たちだった。
アイリスのことをどう呼べばよいか、とマルコに困り顔で相談された時には、アイリスも困ってしまった。
『奥様』と呼ばれるのはおかしな話だし、かといって一度は主人の妻だった女性を『お嬢様』とは呼びにくい。
結局この件は、暫定的に『奥様』と呼ぶことになってしまった、というわけだ。
「奥様、町が見えました!」
さっそく、兵士の一人がアイリスを呼んだ。
彼女が乗る馬橇の馬の轡を取っている兵士だ。彼の指さす先を見れば、赤い三角屋根が見える。
アイリスはホッと息を吐いた。
日が暮れるまでに町に着くことができたので、マシューや兵士たちを野宿させずに済む。
案内人によれば、目的地である北の霊山のふもとまではこうして町が点在しているので、よほどの吹雪に足止めされるようなことでもなければ、日のあるうちに町から町へ移動できるということだった。
町に到着すると、さっそく案内人がマシューを連れて宿の手配に向かった。ここから先の町には、いわゆる宿屋はない。人通りがそれほど多くないからだ。そのため、部屋を貸してくれる家を探さなければならないのだ。
宿の手配を待つ間、アイリスたちは町の住人が案内してくれた軒先を借りて体についた雪を払った。吹雪ではないとはいえ、全員まっ白だった。
そうこうしていると、親切な住人が温かいお茶を沸かして持ってきてくれた。
ありがたくいただくと、芯から身体が温まった。
(不思議だわ)
匂いも色も普通のお茶なのに、こんなに身体が温まるとは。
首を傾げるアイリスに、住人が笑顔で言った。
「魔術師様からいただいたお茶だよ。あったまるだろ?」
と。
『魔術師』
その言葉に、兵士たちの間にもざわめきが広がった。
この国には、古くから魔術師と呼ばれる人々がいる。彼らは不可能を可能にする、不思議な力を使うことができるのだという。
だが、魔術師は人間の技術の進歩と共にその数を減らし、今ではほとんどいなくなってしまったのだという。北や南の辺境には今でも人々の生活を助ける魔術師がいるとは聞いていたが、どうやら、この町では身近な存在のようだ。
そして、その魔術師こそが、アイリスが北を目指した目的でもある。
アイリスの身体を蝕む『氷心症』の原因は、かつて北の霊山にいたとされる氷の魔女の呪いによるものだと言い伝えられている。
彼女は、魔術師に会ってその呪いを解く方法を教えてもらうために、北を目指しているのだ。
「その魔術師様は、どちらに?」
アイリスが尋ねると、住人は屈託なく笑った。
「そのお茶、気に入ったかい?」
「はい」
「そういうことなら、もっと北に進めばいい」
「北へ?」
「ああ。魔術師様は、北の霊山のふもとに住んでるからね」
やはり、向かう先は間違いではなかったらしい。
それが分かって、兵士たちが嬉しそうに頷いた。アイリスもホッと息を吐く。
そうしていると、町の入り口が騒がしくなった。アイリスたちの他にも客人が来たらしい。
それを見た住人が、また満面の笑みを浮かべた。
「あんた、運がいいね」
「え?」
「あれが魔術師さまだよ!」
住人が指さす方では、一人の男性が子供たちに囲まれていた。
若い男性だ。
二十代半ばくらいだろうか。紺青色の髪が特徴的なその人は、すぐにアイリスの存在に気づいて、氷のように透き通った瞳で彼女を見つめて大きく目を見開いた。
「うそだろ、ほんとに来たのか?」