第10話 二人の旅
宿の狭い部屋の中、アイリスとマシューはようやく二人きりになった。
ただし、この部屋には小さなテーブルと椅子が一脚、そしてベッドしかない。仕方がないので、アイリスはベッドに腰かけ、マシューには椅子をすすめた。
「どうぞ」
ところが、マシューは部屋に入って扉を閉めたままの格好、つまりアイリスに背を向けたままの姿勢からなかなか動こうとしなかった。
「あの……」
業を煮やしたアイリスが声をかけると、マシューの肩がビクリと揺れて。それに驚いたアイリスも驚いて身体を揺らした。
木製の古いベッドが軋んで音を立てるが、すぐに部屋の中は静まり返った。
だが、今度の沈黙はそれほど長くは続かなかった。マシューがそろりと振り返り、うつむいたまま椅子に腰かけたのだ。
そして、そのまま深く、深く、頭を下げる。
「申し訳なかった」
はて。
アイリスは首を傾げた。
何か、彼に謝罪されるようなことがあっただろうか。
彼女が謝罪の理由に思い至っていないことには、マシューはすぐに気が付いた。気まずそうに顔を上げて、うろうろと視線をさまよわせる。
「……勝手に、君に護衛を付けていた」
驚きはしたが、不思議と怒りは湧いてこなかった。むしろ、いろいろなことに合点がいってスッキリしたくらいだった。
親切にしてくれた宿のウェイターが『あなたは一人じゃないですから』と言っていた。あれは、護衛のことを言っていたのだ。おそらく、発作で倒れた時すぐに駆けつけてくれたのだろう。そして、ウェイターには正体を明かしつつも、アイリスには黙っていてほしいと頼んだに違いない。
マシューはその護衛を通してアイリスの動向を把握していたのだ。
だから、野盗の襲撃にも助けに来ることができたのだろう。
だが、ここでふと疑問がわいてきた。
どうして、彼自身がここへ来たのか。
離縁した妻のために、公爵家の当主が自らこんな北の辺境までやってくるとはおかしな話だ。
だが、アイリスはその疑問を上手く言葉にすることができない。
再び無表情で黙り込んだアイリスに、マシューが困ったような表情を浮かべた。
いつも、こうだった。
二人きりになることがなかったとはいえ、結婚当初は顔を合わせる機会がなかったわけではない。結婚してしばらくの間は一緒に食事をとっていたし、二人で舞踏会に出席したこともある。
だが、いつもこうして、お互いに何を考えているのか分からなくて黙り込み、気まずくなって離れていく。
そんなことを繰り返しているうちに、顔を合わせることすらしなくなってしまったのだ。
魔女の呪いのせいかもしれない、と教えてもらった。だが、アイリスはそれが全ての原因ではないと分かっていた。
努力することは、できたはずなのだ。
たとえ言葉にできなくても、感情を表に出すことができなくても。
お互いに分かり合うために、できることはあったはずなのに。
アイリスは、それをしなかった。
今の二人の関係を作ったのは、努力を放棄してしまった結果でしかない。
(また、同じことを繰り返すの……?)
アイリスは、ぎゅっと拳を握りしめた。
このまま黙っていれば、マシューは諦めてこの部屋から去っていくだろう。今までもそうだったように。
二人は分かり合えないまま……。
(そんなのは、いや……!)
たとえマシューが望んでいなくても、彼が自分のことを嫌っていたとしても。
彼に自分の気持ちを知ってもらいたいと、強くそう思った。
アイリスは弾かれたように立ち上がった。驚くマシューを尻目に勢いよくトランクを開き、一番奥にしまってあったそれを取り出す。
ブルーダイヤモンドの結婚指輪だ。
野盗から身を挺してでも守りたいと思った。
大切なものだったから。
アイリスは巾着から取り出した指輪を手のひらに乗せて、マシューに見せた。
それを見たマシューが驚きに目を見開く。
アイリスは深呼吸をして、トントンと自分の胸を叩いた。ドキドキと高鳴る心臓を落ち着かせるように。そして、いつものように固まる喉を撫でる。
(どうか、お願い!)
この気持ちだけは、彼に伝えさせてください。
アイリスは心の中で祈った。
だが、やはりできなかった。
いつもと同じく、氷が張り付いたみたいに喉も唇も固まってしまう。悔しくて涙がこぼれてしまいそうな気持ちなのに、やはり表情は少しも動かない。
(これで終わり……?)
そう思った時だった。
指輪を乗せた手のひらに、温もりが重なった。
マシューの手だ。
剣術の訓練を重ねてまめだらけになっている武骨な手が、そろりとアイリスの手に重ねられる。
「……ありがとう」
ポツリと、言ったのはマシューだった。
「大切に持っていてくれたんだな」
マシューがホッと息を吐いた。そして、わずかにほほ笑みを浮かべる。
「君の瞳と同じ色の宝石だ。君がこれを選んでくれたら嬉しい。そう思って、宝石商を君のところに行かせた」
そうだったのかと、アイリスは胸の奥に何かがストンと落ちるのを感じた。
(二人そろって、この宝石を選んでいたのね)
つまり、あの瞬間だけは。
二人は分かり合えていたのだ。
この夜、二人が話したのはそれだけだった。
だが、それで十分だったとも言える。
ようやく、互いを知るための一歩を踏み出すことができたのだから。
* * *
翌朝、アイリスが支度を終えて宿の食堂に行くと、マシューが新聞片手に先に食事を始めていた。
アイリスは誰かに勧められるよりも早く、その隣に腰かけた。
「……」
「……」
沈黙が落ちる。
だが、気まずくはなかった。
「……出発は一週間後にしよう」
マシューが新聞を広げてアイリスに見せる。そこには天気予報が載っていた。
「明日から雪が降る。もう少ししっかりと冬支度を整えなければ、ここから北を目指すのは厳しい」
彼はアイリスの旅についてくるつもりなのだ。そのための準備をこの町で整えてくれると言う。
驚くアイリスに、マシューがぎこちない笑みを浮かべた。
「あの人が言っていた通りだと思う。君は、魔女の呪いなんかに負けない」
アイリスの青い瞳を、マシューがまっすぐに見つめて。
「一緒に行こう」
力強く、そう言ってくれた。
「はい」
はっきりと答えたアイリスに、マシューが笑みを深くした。
二人の旅は、始まったばかりだ──。
ここまでお読みいただき、ありがとうございます。
少しでも面白いなぁ、続きが気になるなぁと思っていただけましたら……
ブックマーク・評価・いいね・感想・レビュー、よろしくお願いいたします。
次回から、新展開……!?