第1話 氷の女
──忘れないで、アイリス。
なあに、お母さま。
──世界で最も偉大な魔法、それは『愛』よ。
うん、知ってるよ。
──どれだけ大きな困難があっても、『愛』さえあれば乗り越えられるから。
そうだね。
物語なら、そうかもしれないね。
でも、私の人生に『愛』はないから。
もしも、私が『愛』を手にしていたなら……。
そんなこと、いまさら考えたって仕方ない──。
* * *
アイリスは、『氷の女』と呼ばれている。
白い肌とプラチナブロンドの髪、そして氷のような青い瞳という容貌が理由かと言われれば、そうではない。
彼女は生まれてこの方、一度も笑ったことがないのだ。
結婚してからもそれは変わらず、笑顔を見せることはなかった。
そんな彼女に、まともな夫婦関係を築けるはずもなく。夫とは寝室を共にすることはおろか、話をすることも顔を合わせることもないまま、数年の時が過ぎた。
そして、今日。
その結婚生活も、とうとう終わりを迎えることになった。
「離縁してくれ」
アイリスの夫であるマシューは、二十一歳の美しい青年だ。
凛としたアッシュグレーの髪に切れ長の黒い瞳、すらりと長い手足に均整のとれた美しい体躯を持つ若き公爵。
誰よりも美しい彼は社交界でも人気者……とはいかず、年の割に冷静沈着で何事にも動じず、淡々とした無口な性格ゆえか、社交界の貴婦人たちからは遠巻きにされることが多い。
ただし、彼女たちが彼に憧れの眼差しを向けていることはアイリスも知っていた。
だから、離縁を申し渡されてもアイリスは全く驚かなかった。
それどころか、
(ようやく切り出してくださった)
と、ほっと胸をなでおろしたくらいだ。
まったく笑顔を見せない『氷の女』より、もっと素敵な女性と結婚した方がこの人は幸せになれるに違いないのだから。
「承知しました」
アイリスは、即座にそう答えて踵を返した。
さっさと荷物をまとめてこの屋敷を出て行かなければ。新しい奥方を迎え入れるために模様替えをしなければならないだろうから。
「……なぜだ」
ぽつりと、マシューがこぼした。
たった一言。
だが、何を意図した質問だったのかは問い返すまでもなく明白だ。
彼はアイリスが即座に離縁を受け入れた理由を知りたいらしい。
アイリスはピタリと足を止めて、だが振り返ることはせず、淡々と告げた。
「『氷心症』を患いましたので」
マシューがゴクリと息を飲むのが分かった。
それはそうだろう。
発症してから一年で死に至る不治の病なのだから。
「ちょうどよかったのです」
淡々と告げながらも、『氷心症』に侵された胸がチクリと痛んだ。
アイリスは胸の痛みをごまかすように足早に部屋に戻り、すぐに荷造りを始めたのだった。
* * *
病名がはっきりしたのは、つい三日前のことだ。
数週間ほど前から、時折胸が痛むようになった。
はじめは気のせいかと思うほど小さな痛みだったが、日に日に痛みは強くなり、張り裂けるような痛みを感じるようになったのだ。
医師に相談すると、問診と血液検査、そして魔法による透視検査が行われた。
その結果、『氷心症』という診断を受けたのだ。
数千年前に遥か北の山奥にいたとされる、氷の魔女の呪いの残滓による病だ。
呪いを受けた心臓は徐々に解けない氷に蝕まれ、やがて動きを止める。
およそ一万人に一人がかかる珍しい病気だが、この国でも昔から症例がある。
だが、治療法はない。
余命は発症から約一年、徐々に増してゆく痛みと苦しみに耐えられず自死する者も少なくないという。
なんの皮肉か、『氷の女』が氷の名をもつ不治の病に侵されたのだ。
* * *
アイリスが旅立ったのは、離縁を言い渡された翌日のことだった。もう少し準備に手間取るかと思ったが、そもそも彼女は物を増やしたり散らかしたりする性格ではないので、持ち物の整理はすぐに終わってしまった。
トランクに詰めたのは、最低限の着替えと日用品、そして数点の宝飾品だけだった。それも実家から持ってきたものだけ。
彼女が公爵家に来てから使っていた宝飾品は全て公爵家の財産なので、彼女自身が持ち出してよいものではないからだ。
執事長は気に入ったものがあれば持って行っても構わないと言ってくれたが、すべて断った。
だが、一つだけ。
マシューがくれた結婚指輪だけは、執事長に『お持ちいただかなければ困る』と説得されてしまったので、トランクの一番奥にしまってある。
(あの指輪を渡された時が、二人きりで顔を合わせて話をした、最初で最後の機会だったわね)
結婚式の前日、アイリスの実家に来たマシューが、バラの咲き誇る庭園の真ん中で、
『結婚してください』
そう言って、アイリスに指輪をはめてくれたのだ。
美しい指輪だった。
精緻な彫刻がはいったプラチナの指輪の中央には、一粒の大きなダイヤモンド。少し青味がかっているそれは、ブルーダイヤモンドと呼ばれる稀少な宝石だ。
あの瞬間だけは、自分が物語の主人公になれたような気がした。
この美しい人と結婚して、輝かしくて幸せな日々を送れるかもしれない。
そう思った。
だが結局、何一つ上手くいかなかった。
夜明けとともに公爵邸を出た。大扉から庭を横切る小道をトランク片手にゆったりと進む。
その後ろを執事長と使用人たちがついてくる。見送りは不要だと言っておいたにもかかわらず、庭師もコックも次々と庭に出てきて、門に到着するまでの間に屋敷に勤めている使用人が全員集まってしまった。
『氷の女』と呼ばれてはいたが、数年間を共に過ごした彼らはさすがに多少の愛着を持ってくれていたらしいことがわかって、嬉しかった。
だが、やはり笑顔を向けることができない。
アイリスは、決して心の冷たい人間ではない。
美しいものを見れば美しいと思うし、楽しいと感じることも悲しいと感じることもある。
それなのに。
どれだけ心を動かされても、表情を動かすことが、どうしてもできないのだ。
それゆえに苦労をかけてしまうこともあったかもしれない。それでも、こうして見送りに来てくれた彼らに、アイリスは精いっぱいの気持ちを込めて手を振った。
あらかじめ呼んであった簡素な貸馬車に乗り込む。
最後に、馬車の小さな窓越しに公爵邸を見た。白亜の宮殿のような立派な屋敷も、これが見納めだ。
ガタゴトと音を立てて馬車が動き出す。
マシューが見送りに出てくることは、ついぞなかった──。
こちらは連載版です。
よろしくお願いいたします。
よろしければ、短編版もお楽しみください。