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第13話 潜在的な敵対者


 かろうじて財布が空っぽになっただけで済んだ。出てくる直前に金貨を一枚増やしていなかったら危ないところだった。僕の金貨を飲み干した張本人は、平然とした足取りで、紅潮した頬を気持ちよさげに夜風にさらしている。相変わらず、とんでもない酒豪だ。

 十三週目の夜は湿り気が多くて、なんともいえぬ熱気に浸されていた。月は風邪っぴきの子どもの目のようだ。ついさっき日が落ち切ったばかりだから、酒盛りはこれからが本番。開けっ放しの扉からは大きな注文の声が飛び交っている。

 それに負けないしっかりとした声で、エッダがまくし立てた。


「また何かあったら連絡するからな。弟子にはちゃんと指導しろよ。わがままばっかりいうんじゃねぇぞ。カーミラ様への快気祝い、忘れんなよ。あの人が独身なのはお前のせいなんだからな。分かってんのか、あぁ?」

「はいはい、分かった分かった」

「分かってねぇだろお前!」

「分かった、って。一人で帰れる?」

「あたしを誰だと思ってんだよバーカ! そこの宿を取ってある!」

「ああ、それなら安心だね」

「てめぇこそ気を付けろよ! お前のその痩せ方、まるで――」


 ふいにエッダが言葉を詰まらせたから、僕は驚いて彼女の方を見た。

 彼女は街灯の真下に立ちすくんで、迷子のような顔をしていた。アイスブルーの瞳の輪郭が溶ける。


「まるで、師匠みたいだ……」


 ひゅ、と自分が息を吸う音を他人事のように聞いた。

 らしからぬことを言ったと気付いたのだろう。エッダは思い切り鼻を啜り上げて「じゃあな!」と機敏に背を向けた。

 僕は彼女の背中が宿屋に消えるのを見送って、それからようやく歩き出した。


 広い街道の隅を、ゆったりと歩いていく。昼間の熱の残滓が夜闇に混ざり、肌にぴったりと張り付いてきて、どことなく息苦しい。

 いや、息苦しいのは僕だけかもしれない。

 師匠の死に際を思い出していた。痩せ細った体をベッドに横たえて、弱々しく笑う姿を。時折ひどく咳き込んでは、口の周りを血で濡らしていた姿を。


『老衰だよ。寿命さ。この程度占わなくたって分かる』


 師匠は亡くなった時、まだ六十歳だった。現役としては最高齢。でも、隠居後の生活を充分に楽しめたはずの年齢だ。


「老衰って言うには、若すぎたよなぁ」


 僕はその当時かなり忙しくて、師匠と顔を合わせることは週に一度か二度程度だった。だから、師匠の変化は絵本のようなスピード感があったと記憶している。

 けれど、ほとんど毎日一緒にいたエッダにとっては、それはセミの羽化のようにゆっくりで、重みのある変化だったろう。僕がわずかに痩せたことにも反応してしまうくらいに。

 師匠は普段のやかましさを封じ込め、静かに息を引き取った。


『ジークムント。お前さ、わがままでない振りすんの、やめろよ。欲が無い人間を装うな。お前は欲深くて、わがままで、どうしようもない馬鹿だ。それでいいのさ。それを隠そうとするからおかしくなる』


 そう言って病床で僕の手を握ったことを覚えている。あれは確か、亡くなる二日前のことだった。骨と皮しかない痩せ細った手で、もう息絶えようとする人間とは思えないほど力強く、僕の手を握りしめたのだ。


『正直者であれ、だ。良くも悪くもな』


 その手はひどく冷たかった。これが死んでいく者の温度なのかと思って、ぞっとしたのを思い出す。

 覚えず、自分で自分の手を握っていた。


「良かった、まだ温かい。まだ、温度はある……」


 呟いて胸を撫で下ろし――はたと気が付く。おかしい。僕は“いつ死んでも惜しくない”と思っていたのではなかったか? どうして、温度があることに安心するんだ?

 この期に及んで、死にたくない、とでも言うつもりなのか?

 鼻で笑う。


「はは。あーあ、嫌になるな。……でも、うん。そうだよな」


 今だけ。彼が学校へ入るか、あるいは弟子でいるのに嫌気がさして出ていくか、それまでは。

 僕は初めて、自分の死期がこの先数週間の内にこないことを祈っていた。


 山道には変わらずウゥフコールの歌声が満ちている。大きな社会変動はなさそうだと察して安心した。少なくとも、しばらくの間は。

 日付が変わるよりは早く家に着いたけれど、普段寝ている時間はとうに過ぎていた。だからてっきり、寝ているだろうと思っていたのだが。


(おや、灯りが点いてる)


 窓からちらちらと橙色の光が漏れ出ていた。ランプの光ではない。魔法の色だ。こういうときに燃料を使わないのが彼らしいように思えた。

 僕は何の気なしに扉へ手をかけて、がちんっ、と拒まれるような手応えに驚いた。それで鍵がかけられていることを知る。音におののいたように、室内の灯りが大きく揺れた。


(用心のためかな。偉いな。それか、もう寝ようとしていたか)


 僕はポケットから鍵を取り出した。

 中に入ると、光を掲げたドゥイリオがこちらに駆け寄ってくるところだった。


「おかえりなさい、師匠」

「ただいま。何か変わったことはなかったかい?」

「はい。何事もありません。ええと、あっ、コーヒー、淹れましょうか?」

「今日はもういいよ。向こうでしこたま飲んできたからね。ありがとう」

「いえ。あの、ええと……」


 ドゥイリオは話が途切れるのを恐れるような感じで、橙色の灯りを揺らめかせていた。


「遅くまで起きてたね。本を読んでたの?」

「……はい。すみません、勝手に。なんていうか、その……広いところで、一人なのが、なんか落ち着かなくて……すみません」

「そっか。いや、謝る必要はないよ。ここにあるものは全部、君の好きなように読んでいいから」


 彼が恥じらうように頬を染めて「ありがとうございます」と呟くのを聞きながら、僕はこっそり、彼を一人きりにさせるのは出来るだけ控えよう、と思った。この家も彼の部屋も、むしろ狭いくらいだと思うのは僕の感覚でしかないから。

 光がゆらゆらと揺れる。ドゥイリオの顔にまだらの影が落ちる。


「なにか、迷ってる?」

「え」

「《灯せ》」


 僕はきもち大きめに灯りを点けた。ドゥイリオの不安定な灯りを飲み込んで、部屋の半分くらいが照らし出される。彼は胸の前に掲げていた手をストンと下ろした。


「もし、魔導師になるのが嫌になったりしたら、無理しないでそう言ってくれ。働き口くらいは紹介できるから」

「え、いえ! 違います、そういうわけではなくて!」


 ドゥイリオは手も首も大袈裟なほど横に振った。

 しかし違うというなら、一体ほかに何を悩むというのだろう。


「ええと、その……と、時々、不安になるだけです」

「不安に?」


 彼は頷く代わりのように、深くうつむいた。


「……俺は、ほら、孤児ですし……師匠と違って……勉強とかも、全然してこなかったから……俺みたいのが、魔導師を目指していいのか、って……」


 ぼそぼそと紡がれた言葉に、僕は奇妙なデジャヴを覚えた。似たような言葉を聞いたことがあったのだ。大昔、弟子入りした頃、それを言ったのは――

 僕はぐっと奥歯を噛んで、ひざまずいた。ドゥイリオの手を取る。かつて師匠がそうしてくれたように。

 ドゥイリオの手は異様に温かくて、わずかに汗ばんでいた。


「気にするなとは言えない。人にはそれぞれ差がある。それは覆せない事実だし、そこをわざわざ突いてくる奴だっているだろう。でも、それを理由にやりたいことを我慢する必要はない。君は自分の才能を誇りに思っていいんだよ。他の誰が否定しても、僕が味方をするから、不安に思ってもくじけないで。頼りない師匠で申し訳ないけど」


 ドゥイリオはうつむいたまま、また頭を振った。


「……ありがとう、ございます。頼りなくなんて、ないです。すみません、俺……」

「うん」

「……すみません。あの、遅くまで。お疲れのところに」

「いいんだよ、気にしないで」


 周りを細やかに気遣える性格は、時に自分へ牙を向くのだろう。僕は彼の肩を軽く叩いて「それじゃあ、おやすみ」と話を切り上げた。


 ベッドに寝ころんでから、暗闇の中で思い返す。


(バルタザールも孤児だった。それで、似たようなことを言ってたんだよな)


 初めて会ったときから、彼はずっと僕を射殺すような目付きをしていた。


『僕は、孤児ですから。あなたとは違います。あなたのように恵まれた人間と一緒にしないでください。僕にはここしかないんです』


 そう突き放すように言われたことをよく覚えている。それは、僕が学校を辞めて弟子入りした時だ。つまりほぼ初対面で。その時から最後まで、僕はあの目に憎悪以外の色が付くところを見なかった。藍染めの衣のような、深い青色の目。

 師匠が彼を弟子にした経緯は知らない。ドゥイリオのように押しかけてきたのかもしれないし、師匠が拾ったのかもしれない。どちらにせよ、彼は師匠のもとで学び、一流の占術師になった。ただ、彼はいつの頃からか、師匠からも離れていった。後見人になり名字まで与えてくれた師匠から離れ、あれほど嫌っていた貴族にすり寄っていった。

 彼の選択を否定することはできない。当時も僕は何も言わなかった。けれど、その節操のなさを内心で不快に思っていたことは誤魔化しようがない。

 ドゥイリオと、バルタザール。境遇だけはどこまでも似通っている。


(でも、二人には明らかな違いがある)


 僕のことを敵視するかどうかじゃない。そんなことはどうでもいい。


(バルタザールの灯りは、ドゥイリオみたいに綺麗じゃなかった)


 つまりそれがすべてだと思うのだ。

 だからこそ、あの灯りが揺らぎ、濁り、あるいは消えるようなことだけは、どんな手を使ってでも避けなくてはならないと思うのだ。

 どんな手を使ってでも。


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