プールにて
三題噺もどき―さんびゃくななじゅうはち。
「はぁ……」
誰の耳にも届くことのない溜息が口から洩れた。
まだそんな余裕があることに我ながら驚いた。
人の体というものは、案外強いんだなぁということをぼんやりと思ったりもして。
「……」
視界一面に広がるのは、橙色に染まった空。
所々雲が浮いていて、そのあたりだけパステルカラーのような色合いだ。
普通の晴れた青空に浮く白い雲より、こちらの色づいているものの方がおいしそうだと思うのは私だけだろうか。柑橘系のものが好きだからかもしれないなぁ。
「……」
何かが鼻頭を撫でる感覚がした。
風が吹いているんだろう。
季節はもう秋というより、冬になっている。
冷たい風が吹けばそれとわかるはずなのだけど、残念ながら首から下の感覚がない。
―どころか、空気に触れてさえいないので分かりようがない。
「……」
空気に触れているのはまぁ、せいぜい頭の前面あたりだけだろう。
耳から下も沈んでいるのか、音なんてろくに聞こえない。
感覚が鈍っているせいもあってだろうけど、ほとんど全く聞こえない。
「……」
別にいいには、良いんだけど。
もう聞くべき音も声もない。
受信すべき情報も言葉もない。
―もうすべてどうでもいいことだし、あとは終わりを待つだけだし。
「……」
しかしまさか、この時期にこんな所に放られるとは思っても居なかったなぁ。
というか、この時期なのにプールは溜まっているんだなぁ。もう使うことは来年までないはずなんだけど。何かしらの理由があるんだろうけど。
「……」
おかげでゆっくりとした時間を最後に迎えられていることに、感謝でもしたらいいんだろうか。……こんな時まで他人に感謝の気持ちを持てる私えらいなぁ。
いい子だと思うさ。そんないい子をこんな目に遭わせるアイツらは、全く持って理解不能だ。もうどうでもいいけど。
「……」
私は悪くもないのに、会うたびわざわざ許しを請うてやったのに。
きっと使っている言語が違うのだろう。聞く耳もたずのまんま。
大人しくしていれば治まるだろうと思っていたのに、こんなことにまでなってしまって。
これだからあいつらと話すの話すのは嫌いなのだ。
「……」
と、言うか。
どうして、こちらを毛嫌いしていながら寄ってくるんだろうなぁ。
あちらから来なければ、こっちから行くことなんて絶対にないのに……。
自分がこっちに寄ってきているくせに、酷い言い草だよなぁ。
それで、悪くもないのに許しを請えと言ってくるんだから、理解に苦しむ。
「……」
今日は特にって感じだったなぁ……。
虫の居所が悪かったのか何なのか。
わざわざ鋏なんてものを取り出してきたから何かと思ったら。
取り巻きが若干引いていたのは面白かったな。
「……」
しかし、鋏というものは案外切れ味がいいんだな。
紙を切るときにしか使うことがないものだから、知らなかった。
確かに、凶器足りえるものだったらしい。
「……」
痛みはもうない。熱はあったがもう冷え切った。
倒れこむようにプールに落ちてしまったから、最初は寒かったがもうその感覚もない。
影はとうの昔に消えていたから、驚いてどこかへ行ったのだろう。
「……」
果たして、誰か大人でも来てくれるんだろうか。
既にかなりの時間が経過しているような気もしているが、どうなんだろうな。
時計なんて見えない。
視界に広がるのは、赤が濃ゆくなりつつある空だけだ。
「……」
ん……もうかなり、ぼんやりとしてきた。
だいぶ体の中身が減ってしまったんだろう。人間は水分でできているってこういうことだったのかなぁ……いや絶対違うな。
こんな時にまで馬鹿らしい事しか頭をよぎらない。
「……」
まぁ。
でも。
全て終わる。
終わったことだ。
「……」
もう。
ここに居る必要もないし。
言葉の通じないアイツらの相手もしなくていい。
「 」
1人。
夕方のプールに浮かんでいる。
橙色に染まる水面に。
ジワリと赤が広がっていく。
どこまでも。
どこまでも。
お題:許しを請う・夕方のプール・鋏