信仰について
「キリストは好きだがキリスト教徒は好きではない。キリスト教徒はキリストのようではない」と言ったのはガンディーだったか。
私もキリストは好きだが、教会は苦手だった。一人片隅で祈る礼拝堂の静けさは好きだが、礼拝は苦手である。教会があることで成された福祉は多いだろうし、人々が集まって救われる魂も有るだろう。集団が問題なのではなく、序列を作りはじめると苦手なのかもしれない。
私は宗教芸術は好きで、絵画や音楽、建築も好きだ。キリスト教的世界観の物語や童話も好きである。神がいるのかどうかわからないが、素晴らしい作品が生まれるきっかけになったのなら、それだけで良かったのではないかと思える。
神の名を語り、宗教を支配の道具にしたり、戦争の言い訳に使うのは好きではない。「いかにも弱い人間のしそうなこと」という感じがする。神が悪いというより、人が悪いように思う。そのような弱い人々を救済するためにキリスト教があるのだから、ガンディーのような意志の強い人に「好きではない」と言われるのも当然の帰結かもしれない。
私には昔洗礼を受けた教会があったが、転居で遠く離れてしまい、今はどこにも属さぬ野良クリスチャンになった。「教会に所属しない者はクリスチャンではない」のかもしれないし、「教会に属さぬ者に救いはない」のかもしれない。私にはいまわの際に祈ってくれる牧師もいないし、仏式で葬られるかもしれない。それでも良かった。私にはそういう表面的のことは、あまり重要でない気がした。
「わたしについてきなさい」という言葉が好きだ。祈る時は自分の部屋で祈れ、という言葉もあった気がする。私は自分にとって都合のいい箇所をもってきて使っている。このあたり、私もズルくて弱い信者だ。
天国にいくために祈るのだろうか。私には、天国や地獄が明確にあるという気があまりしない。死んだら無のような気もする。それでも良かった。神が導いて下さるなら、永遠の暗黒でもいい。すべての感覚を失い、天国より心安らかに眠れるかもしれない。ついてこいというのだから、どこまでもついていきたい。それだけだった。「そんなことでは天国にいけない」「地獄に落ちるぞ」と生きている人に言われても、心に響かない。あなたがたがそれを決めるのではない、という気がする。それだけは、わかる。
人間には神も宗教も不要で、ただ死者を弔う気持ちさえあればいいのかもしれない。亡き人が安らかに、幸せでいてくれることを祈ると、こちらが救われる。
私は信仰を家族にも話さないし、家族の信仰も知らない。人にも勧めない。聖書のすべてを理解できるわけでもない。それでも私は神がすきで、慕っている。




