薔薇でなくては
男性目線です。逃した魚は大きかったというお話。
柔らかい微笑み、儚げで頼りなくも見える物腰。
手折らずとも折れそうな華奢な体と、落ち着いた話し方をする澄んだ声。
一目見て守らなければと、そう思った。
「さすがランカスタだな。紅薔薇のとなりに白百合を添えるか、さぞかし豪華だろう」
「なんの話だ?」
「リリーシャ・ホルスト嬢だよ。慎ましく可憐なホルストの白百合と呼ばれているのを知らないのか?」
「慎ましく可憐……そういう女性なのか」
「だがランカスタの侍女は華やかで気の強い才女揃いだと聞いている。慣れないうちは働きにくそうだな」
滑稽な物語は、こんな男同士の何気ない噂話から始まった。そして笑えない結末も、今思えばこのときに決まってしまったようなものだ。オリヴァーは入口からは死角になるような場所で凛と咲く花を見下ろしている。ああ、こんなつもりではなかったのに!
「今日が最後よ、止めないから挨拶くらいしてきたら?」
オリヴァーの背後から侍女を連れた姉が顔を出す。彼女は視線の先にいるリリーを見て、真っ赤に彩られた唇をゆがめた。
「彼女に謝罪の一つもしておくべきではなくて? 隣国の次期宰相夫人よ、今後顔を合わせたときに気まずいでしょう?」
「どの面下げてと言われたら立ち直れそうもない」
「ふふ、たしかに無様よね。好きな女の子をいじめて許されるのは子供のうちくらいだもの」
「別にいじめたわけじゃない」
「本人が意地悪だと思っているのなら、一緒よ」
パチンと音を立てて姉は扇子をたたむと、鋭く研いだ剣の切っ先のようにオリヴァーの胸元に突きつけた。浮かぶ表情は心底呆れたような顔で、視線はどこまでも冷ややかだ。
「まさかあなたが恋愛方面だけポンコツだとは思わなかったわ」
「……容赦ないな」
言葉の刃は、ぐさりと心臓に突き刺さる。目元を覆い、オリヴァーは深く息を吐いた。
――――もっと近くにいて、少しでも長く触れ合っていたい。その気持ちが暴走して、気がつけばあんな子供じみた手段を選んでいた。
言い訳だけれど、上から見下ろすだけのオリヴァーには視線を下げたリリーシャの耐え忍ぶ顔が見えなかったのだ。公園でひざまずいたときにはじめて、苦痛に歪む顔を見た。全く幸せそうに見えない。このときようやく自分が思い上がっていたことに気がついたのだ。
「そういう意図がなかったにせよ、あなたは必要以上にあの子を傷つけた。それだけで十分断罪に値するわ」
姉は視線でリリーの動きを追いながらオリヴァーを追撃する手をゆるめない。視線の先には侍女仲間と手を取り合い、親しげに話しながらはしゃぐリリーがいた。彼女の柔らかい表情に姉は鋭い視線をゆるめて、深く息を吐く。
「まあ、最初は私もあなたが原因と気がつかなかったのだから同罪の部分もあるわよね」
普段の如才ない態度からオリヴァーに問題があるとは思いもしなかった、と姉は言った。オリヴァー自身もリリーシャが頭を下げたあの瞬間まで自分の失態に気がつかなかったくらいなのだから当然だろう。人間関係で苦労はしたことがないだけに、まさか自分の行動が完全に裏目に出ているとは彼自身も思っていなかったのだ。
「お父様やお母様は可哀想だからって言わないけれど、あなたのためにならないと思うから一応教えておくわね」
姉はオリヴァーと視線を合わせた。
「リリーはね、あなたの婚約者候補として呼ばれたの」
「……は?」
「知らなかったかもしれないけれど、あのほんわかした見た目と違ってあの子は優秀なのよ。両親が取り寄せた学業の成績やマナーの仕上がりは同年代で頭二つは抜けていたわね。自分からアピールするタイプではないからわかりにくいけれど、目端がきいて、さりげなく人の足りないところを補ってくれる如才ない子よ。目上に可愛がられ、年下には慕われる。しかも敵を作りにくく、味方が増やせるの。ある意味とても希少価値が高い資質をもつ子だわ、ねえ?」
姉は侍女長に視線を投げかけると、彼女はにこやかに微笑んで何度もうなずいた。そういえば、とくに彼女はリリーを可愛がっていたような気がする。
「あなたは騎士でもあるから、家を留守にすることも多いでしょう? あのくらいの若さで家と領地の両方を問題なく差配できるのは、現状だと彼女くらいのものでしょうね」
扇子を口元に当てて、姉はほうっとため息をついた。
「それを公爵家にふさわしくない、だったかしら?」
「……」
「公爵家にふさわしくないのはどちらかしらね? それでも両親は諦めきれなくて、他家に圧力をかけてまであの子を侍女見習いとして採用した。どうしてだかわかるかしら? それはね、近くで働かせて、あなたに彼女の良さを気づかせようとしたの。あなたもまた試されていたのよ、人を見た目で判断せず、能力で人をはかる目があるのかどうかを」
それが見事に不合格と。オリヴァーは強く手を握り締めた。爪が食い込むくらいに、強く……。どうして俺は、薔薇でなくてはこの家で馴染むことができないと思っていたのか。彼女は十分に自分の能力だけで信頼を勝ち取っていたというのに。序列に関係なくたくさんの使用人が別れの挨拶におとずれる姿を見れば、いかに彼女が大切にされていたのか察せるというものだろう。
「使用人だからといって、いつもそばにいられるわけではない。私達に引き離されて、ようやく自分の本当の気持ちに気がついたということかしら?」
「……」
あるときを境に、ぱたりとリリーに会えなくなった。いつでもそばにいたはずの人が、急に遠くなる。それでようやくこれが恋なのだと自覚した。会いたい、いつもそばで守ってあげたい。だから、なんとかして現状を打開しなくてはとそう思ったのだ。
「たしかに使用人を甘やかすのは良くないわ。でもね、必要以上に叱責するのも間違っている。相手を萎縮させるだけだもの。騎士として後輩の指導も行っているだろうあなたに、こんな当然のことを教える日がくるなんて思いもしなかったわ」
姉は容赦なくオリヴァーを追い詰める。オリヴァーは苦いものを飲み込むような顔で表情を歪めた。どうしてもと姉に懇願して、先日、ようやくリリーと話をする機会を得た。廊下で鉢合わせた瞬間に、彼女の瞳に浮かんだのはなぜここにいるのかという驚きと、ほんのわずかだが浮かんでいたのは……自分の中では試合の場にすら立てていないのに、すでに嫌われているかもしれないなんて現実を信じたくはなかったのだ。
「あなたは次期公爵、いつでも誰かしらに見られていることをもっと自覚しなさい」
予定にない行動をしても阻止されるように、オリヴァーが女性を連れて歩けば噂になる。だからリリーは謝恩祭を侍女の格好をしてオリヴァーに付き添ったのだ。それも仕事の一環であると周囲にアピールするためだったとは……。別に噂になってもよかった、いや、事前にドレスを贈るべきだったかとオリヴァーはようやく思い至った。
実際のところ、オリヴァーの気持ちを知らなかったリリーシャにすれば完全に業務の一環として侍女服を選んだだけだったが、初恋を拗らせたオリヴァーはそこまで意識が回らない。
「リリーはね、あなたの至らないところを思い知らせてくれた。あなたに物申すなんてこと、騎士団の練習場で黄色い歓声をあげているだけのお子様達には絶対無理よ」
全ては、オリヴァーのために――――。
なんて愚かなことをしたのか、私は。失った花ほど、より素晴らしくかけがえのないものに思えてしまう。
姉は嘲笑うように口角を上げた。
「あなたがいらないと言うのですもの、かわいいリリーは私がもらうわね」
「いらないなんて言っていない!」
「ああ、愚かなオリヴァー。あなたが公爵家の後継で本当に大丈夫なのかしら? そこまで執着するのなら、どうしてリリーシャを婚約者にしなかったの?」
オリヴァーは言葉につまった。そう、選択権はオリヴァーにあったのだ。リリーに誠心誠意謝罪して、許されるのなら彼女と共に歩みたいと両親に伝えればよかった。そうすれば、少なくとも目の前でさらわれるような失態を犯さずにすんだだろうに。
「あなたの知っているとおり、国同士を繋ぐ婚姻は家の一存だけではどうにもならないのよ。最終的には王家に意向を示して承認されなければならないの。だから私がしたことは隣国が求める婚約者候補に婚約者のいないリリーシャの名を挙げただけ。そして相手国が彼女を選び、王家は承認した。国同士の約束だから、もう覆ることはないわね」
「優秀なら、どうして彼女を手放すようなことを……!」
「私が国外に心強い協力者が欲しかったからよ。リリーシャが隣国の次期宰相の妻におさまれば王子妃となった私に隣国との繋がりができるでしょう。お互いに外交が戦場となるから、国を違えても助け合えるわ。それにしても……あの冷静沈着なリリーが彼に一目惚れすることなんて想定していなかったのよ。でも相手はオリヴァーの何十倍も大人みたいだし、幸せになれそうでよかった」
侍女仲間にからかわれて赤く頬を染めたリリーは、ここにいる誰よりも美しい。
それは誰よりも幸せだからだろう。
「ああ、そういえば両親があなたに新たな縁談を探しているそうよ。もうあなたには任せられないそうだわ」
「……そうか」
「お願いだから彼女達をリリーシャと比べて無意識に貶めるような真似はしないでちょうだいね。今度こそ、あなたの次期当主としての資質まで疑われるわ」
「わかってる」
リリーシャがオリヴァーに残していった爪痕は大きい。それは彼にとって決して悪いものではなかったけれど、オリヴァーの心にも容易には治らない傷を残した。でも一番傷ついたのはリリーシャなのだ。
「そうそう、隣国の腹黒……っと、侯爵子息から伝言よ。こんな素敵な女性を紹介してくださるなんて公爵家のご子息は欲のない方ですね、って。完全に舐められているわよ。隣国での評価を挽回するには相当頑張らないとダメみたいね。リリーの評価が上がれば、さらに努力が必要になるでしょう」
女性だからと甘く見ることなかれ。才覚によっては一国の公爵子息よりも影響力を及ぼすことだってあるのだから。それでも、と最後に姉は憐れみを孕んだ眼差しでオリヴァーを見つめる。
「今日はわざわざリリーシャを見送るためだけに騎士団を休んだのでしょう? その心意気に免じてもう意地悪言わないから、ちゃんとお別れしてきたら?」
「いや、ここでいい」
「まったくもう、ヘタレね! じゃあ、そろそろ私はリリーに会いに行くわ。隅っこで己の不甲斐なさを噛み締めながら今後の教訓になさいな」
立場が上であるオリヴァーが謝罪すればリリーシャは許さなくてはならなくなる。強制的に許さなくてはならない状況に追い込むのは彼女の傷をさらに増やすだけだ。だからオリヴァーは、せめてもの償いとして沈黙を選択する。勘違い男の不名誉は甘んじて受け入れる覚悟だった。
「変なところで潔いのだから。どうしてその資質が恋愛方面で活用できないの?」
姉は呆れた表情をして、軽やかに階段を降りていく。迷いのない足取りと自信に満ちた背中は、才能と努力に裏打ちされた自信があるから。ランカスタの薔薇は、そこにいるだけで人の心を惹きつけるような強い魅力を放つ。でも自分は? 強くて頼もしい姉のカリスマ性には到底及ばない。
オリヴァー様、薔薇でなくとも花なのです――――。
豪奢な赤薔薇の咲き誇る公園で、リリーシャは赤薔薇の隣につつましく咲く白薔薇にも手を伸ばした。普通ならば目に止まらないだろう小さな白薔薇、だけど彼女はそれを慈しむような眼差しで触れたのだ。必死に存在を誇示する白薔薇は、まるで姉の影に隠れる自分のようではないか。あのときの強烈に焦がれるような感情を言葉にするのは難しい。心の底では今更だと知りながら、時間を巻き戻したいと非現実的な願いすら抱いてしまうほど彼女に惹かれた。
「さすがね、リリー。薔薇にも負けないくらいに美しいわ」
自分にも他人にも厳しい姉の感嘆するような声が聞こえて、視線は声のする方向へと釘付けになる。
オリヴァーは、いつのまにかリリーシャに自分を重ねていたのだ。赤薔薇に負けそうな白百合を自分と同じだと侮っていた。それでももし彼女を手に入れていたら、そんな弱いオリヴァーでも寄り添って心強い支えとなってくれたかもしれない。だが選択肢を間違えてしまった彼の恋は、恋のままで終わってしまった。
別人かと見間違うほどに凛と咲く彼女の姿をオリヴァーは決して忘れることはないだろう。
そこには美しく洗練された大輪のカサブランカが咲き誇っていた。
当初は薔薇戦争というタイトルにしようと思いましたが、物騒なのでタイトルはこのままでいこうと思います。薔薇とカサブランカ、赤薔薇に白薔薇、どちらも個性があって素敵だよねというようなテーマです。個人的には傾向が全然違いますが淡いピンク系の花が好きです。皆様はいかがでしょうか、そんな軽い気持ちでお楽しみいただけると嬉しいです。