薔薇でなくとも(前編)
「リリー、君は謝恩祭に休暇を取得していたよね」
「はい」
「では一日、私につきあってほしい」
リリーシャ・ホルストは困惑していた。
なにをどうすれば、そういう発想になるのかと。
リリーシャは伯爵家の次女として生まれた。すでに兄と姉がいるから、よほどのことがない限り伯爵家の後継となることはない。将来は他家に嫁ぐのだからと行儀見習いも兼ねてランカスタ公爵家で働くことになった。ランカスタ公爵家には『ランカスタの薔薇』と評される美しく気品高い御令嬢――ロザリア様がおり、リリーシャは彼女の侍女となる予定だった。そしてロザリア様には二つ歳下にオリヴァー様という弟君がいる。
オリヴァー様は金の髪に青の瞳、頭脳明晰でロザリア様に似た端正な顔立ちと腕の立つ騎士として有名だった。噂では王家からも覚えめでたく身分の低い者にも優しい非の打ち所がない紳士だとも言われている。結果、淑女の皆様の人気を一身に集めているそうだが、なぜかリリーシャにだけオリヴァー様は欠片も優しくなかった。紳士どころか、はっきり言って大嫌いな部類にはいる人間である。まず初対面の印象は最悪だった。淑女の礼をとったリリーシャをひと目見るなり険しい顔でこう言ったのだ。
「華がない。公爵家にはふさわしくないのでは?」
真っ向からふさわしくないと否定されたリリーシャは微笑みを貼り付けながらも絶句した。
たしかに公爵家の使用人ともなれば、末端の人間でさえ品のある整った容姿の者ばかりだ。リリーシャはどちらかというと目鼻立ちがはっきりとした顔立ちというよりは、悪く言えば特徴のない顔立ちで、気質も人に与える雰囲気も華やかというよりは優しく穏やかなほうだと言われる。それを華がないと評するならたしかにそのとおりだが、人として口にして良いことと悪いことはあるのではないだろうか?
案の定、野心はあるけれど良識的な公爵家の方々はオリヴァー様の台詞に固まった。当主や当主夫人だけでなく、表情に出さないことを厳しく躾けられているはずの使用人でさえ、はっきりとうろたえたような表情を浮かべた。
「オリヴァー、いきなりどうしたのだ? そんな態度はおまえらしくない。言わずともわかっていると思っていたが、初対面の女性に対してその言い方は失礼ではないか!」
「ですが本当のことでしょう。期待を持たせるほうが可哀想です」
そこまで言うほどひどい容姿ではないと思う。ロザリア様のように十人が十人ともに美人と評するほどの美貌ではないが、可哀相と言われるような瑕疵があるわけでもない。当主であり父親でもあるテオドア様と母親であるセレナ様にたしなめられ、しぶしぶ謝罪をしたあたりで一気に評価が地に落ちた。完全に初対面だし、ここまで嫌われる理由に心当たりは何一つない。けれど、次期当主になる人間に嫌われたのだから採用は見送られるに違いないと思った。それに自分の容姿を貶されてまで勤めたいとは思っていなかったし、これは縁がなかったものと見切りをつけ、差し障りない程度に会話を交わしてさっさとその場を辞した。
腹立たしい気持ちを押し殺して帰宅し、両親にはありのままを伝えた。けれど最初は全く信じてもらえなかったのだ。なにせ相手が悪い評判の一つもないオリヴァー様だ。あんな紳士の鑑と評判の人が理由もなく貶すとは思えない、と言われた。むしろ私が粗相をしたのではないか、謝罪が必要ではと私のほうが悪く思われる始末。だからこう答えた。
「親が授けてくれた容姿に難癖をつけるような相手へ、理由もわからないまま謝罪せよというのですか⁉︎ それなら修道院に入ったほうがマシです」
そこまで言ってようやく信じてくれたけれど、次期公爵が嫌がるような娘を公爵家が採用することはないだろう。だから早々に別の家へと奉公を打診した、その矢先のことだった。どういうわけか彼らの返事がくる前にランカスタ公爵家から採用の連絡がきたのだ。
あんなことがあったというのに、採用するとはどういうこと⁉︎
次期当主がふさわしくないと貶した女性の採用を決めたという彼らの思考回路が全く理解できなかった。はっきり言って不信感しかないし、嫌で仕方がない。けれど雇用条件も給与も破格だったし、面接までしてもらったうえで選ばれた身だ。両親は大層喜んでいるし、格下である伯爵家の立場で断るという選択肢もなく、逃げ道もないので公爵家に勤めることとなった。
そして顔合わせの日を迎える。
「精一杯勤めますので、よろしくお願いいたします」
私は主人となるロザリア様に深々と頭を下げた。ロザリア様は私の面接があった日に婚約者である王子殿下の急な呼び出しがあったそうでご不在だと聞いていた。そんな彼女に開口一番問われたことがこれだ。
「あなた、オリヴァーに何かしたの?」
「いいえ。初対面のはずですし、全く心当たりがありません」
「そう? あらましを侍女から聞いたときは、正直なところ信じられなかったわ。オリヴァーは誰にでも愛想がいいから逆に態度が悪いのは珍しいのよね」
その言い方では、まるで私のほうに非があるかのようだ。心当たりはないのだと、もう一度正直に答えると、ロザリア様は怪訝そうな顔をしたけれど、でもそれ以上は何も言わなかった。
どうやらロザリア様が積極的に私を選んだというわけではないらしい。ならば公爵様かセレナ夫人が私を選んだのか……それにしても、なんで第一印象の最悪な私が選ばれたのだろう?
あとから思えばこの違和感は正しかったのだ。
こうして私の苦痛しかない公爵家での生活が始まった。
「全く、こんなこともできないのか!」
「申し訳ありません」
今日も今日とてオリヴァー様に叱責され、頭を下げる。行儀見習いのうちは知らないことやできないことが多かった。礼儀作法はある程度学んでいたけれど、家独自のしきたりは当然のようにわからないし、お茶会や夜会は規模が違うからやらねばならないことも桁違いだった。それでも覚えたことは将来の役に立つし、体を動かすことは嫌いではない。一生懸命働いていたところ、最近はロザリア様にも愛称であるリリーと呼んでいただけるようになって、はじめは距離のあった使用人ともようやく打ち解けることができた。オリヴァー様の態度があってマイナスからのスタートだったから、信頼されるまでがとても大変だった。
でもオリヴァー様との間にできた溝は今もって埋まらない。こうして事あるごとにダメ出しをされたり、突然呼び出されては厳しく指導される。しかも同じ失敗をしても私以外の使用人には評判どおりに優しいのだから余計に腹立たしい。あまりにも差があるものだから侍女仲間に相談したところ、『あのお優しいオリヴァー様に限ってそんなことはあり得ない』『被害妄想ではないのか』と呆れたような顔で言われた。……なんなのよ、この温度差。
そんな理不尽とも思える扱いを耐え忍び、半年ばかり過ぎたころ。見る人は見ていてくれているようで、あまりにも周囲にとる態度と違い過ぎるからと見かねたロザリア様が仲裁しようとしてくれた。ロザリア様は、もしかしたら私が気がつかないうちにオリヴァーを傷つけていたかもしれないでしょう、とおっしゃったのだ。私も自分が気がつかないうちにと言われたら、絶対やっていないという自信はないので、ここは職場環境を改善させるためと割り切って計画に乗ることにしたのだ。
ロザリア様に呼び出され、オリヴァー様が部屋に入ってきたところで、リリーシャは間髪を容れずに頭を下げた。オリヴァー様が目を見開いて、一瞬言葉を失う。
「これはどういうことだ?」
「私が提案したのよ。あなたのリリーに対する態度があまりにも冷たいでしょう? だからもしかすると本人が気がつかないうちにあなたを傷つけた可能性があるのではないかと話したの。そうしたらね、リリーがそれなら謝罪したいというから、こういう場を設けたのよ」
私は真っ直ぐにオリヴァー様の目を見つめて謝罪の姿勢をとる。精一杯、とにかく機嫌直してくださいという切実な願いを込めてスカートをつまみ深く膝を折った。
「公子様、申し訳ありませんでした。この場で私の非礼を深くお詫びいたします」
非礼の内容はわからないけれど、何かオリヴァー様の機嫌を損ねるようなことをしてしまったに違いない。そうでなくては他人には優しいと評判の彼が、私にだけ厳しい態度を取るとは思えなかった。はじめてみるオリヴァー様のうろたえた表情……しかも彼の顔から血の気が失せて真っ青になった。
え、そんなに嫌われていたの? 私が言葉を失うと、案の定、ロザリア様も顔色を悪くする。
「ちょっとオリヴァー大丈夫? やっぱり何かあったのでしょう⁉︎ リリー、本当に心当たりはないの⁉︎」
「あ、ありません! ですから一体私がなにをしたのか聞かせていただけませんか⁉︎ この状況では公子様にきちんと償うこともできないのです!」
「公子……なぜオリヴァーの名前を呼ばないの?」
「なぜも何も……私は名前で呼ぶことを許されておりませんので」
そう、私は彼を名前で呼んだことがなかった。厳密に言うと、そういう会話ができる余地がないのだ。内心では面倒だから名前で呼んでいるけれど、表立って口にしたことは一度もない。使用人として接するときや、どうしても呼ばなくてはならないときは状況に合わせて公子かご子息と呼んでいる。それを聞いたロザリア様は深く息を吐いて、悲しそうな顔で首を振った。
「そこまで深刻な状況だとは思わなかったわ。仕方ありません、リリー、いえ、リリーシャ・ホルスト伯爵令嬢、今月末をもってあなたとの侍女契約を解除いたします」
「承知いたしました。ご迷惑をおかけいたしましたことを深くお詫び申し上げます」
ロザリア様からの通告に思わず頬が緩みそうになるのを堪えた。
ついに、ついにだ! これからのことを考えると不安しかないけれど正直なところ安堵した気持ちが強い。私は沈痛な面持ちを崩さずほんの少しだけ微笑みを浮かべると、深く礼の姿勢をとった。ロザリア様は頭上でため息をつく。
「あなたは優秀だし、これからの働きを期待していたのに残念です」
「ご期待に添えず申し訳ありませんでした」
「お父様には私から話しましょう。あなたの今後に配慮して、一身上の理由ではなく契約の更新をしなかったという扱いにしますからね」
「温情に感謝いたします!」
私の置かれた状況の悪さに対して破格の配慮だった。任期途中の契約解除は不名誉だけれど、期間満了で契約更新をしないという扱いならば紹介状も書いてもらえるだろう。紹介状を使って他家に勤めてしまえば、これでもうオリヴァー様に些細なことで叱られなくても済む。不安だらけのはずなのに、もはや明るい未来しか見えないわ!
それなのに、黙っていたオリヴァー様が急に声を張り上げたのだ。
「ダメだ、それは許せない!」
「何を言っているの、これがあなたの望みでしょう?」
そのとおりです。ロザリア様はランカスタ家の後継であるオリヴァー様の意志を尊重して私を辞めさせるという選択をした。でもオリヴァー様は眉間に皺を寄せて首を振る。腑に落ちないという顔でロザリア様は首をかしげた。
視線を向けるとオリヴァー様と目が合った。途端に、彼が目を見開く。どうやら私の顔にはロザリア様とのやりとりで浮かべた微笑みが残ったままだったらしい。おっといけない、笑ったままでは不謹慎だわ。表情を消してから、もう一度見つめ返すと突然彼は口元を手で覆った。意志の強そうな瞳は潤み、滑らかな頬は赤く染まる。
場にいたたまれないような沈黙が落ちた。やがてロザリア様が呆然とした表情で目を見開く。
「オリヴァー、まさかあなた……!」
覚悟を決めたように大きく息を吐くとオリヴァー様は口を開いた。
「リリーシャを辞めさせる必要はない。……これは俺の問題だから」
そして扉を開けながら部屋の外へと軽やかに身を滑らせた。あっという間に姿が見えなくなる。
さすが騎士、身のこなしに無駄がない。でも言っていることはなんのことだか私にはさっぱりわからなかった。なのにその場に居合わせた私以外の人達には状況がわかっているらしい。誰もが扉の向こう側に冷たいような、生温い視線を送っている。やがてロザリア様が深くため息を吐き、首を振った。
「呆れた、そういうことだったのね」
「どういうことでしょうか?」
「あなたは悪くないということよ。まさかオリヴァーが原因だったなんて思いもしなかったわ。ごめんなさい、リリー。先ほどの契約解除は撤回させてもらうわね」
「えっ! っと、……理由をお伺いしてもよろしいでしょうか?」
雇用者側のあまりにも早い前言撤回。そのせいで思わず素に戻ってしまったけれど、見逃してもらえたらしい。ああ、せっかく掴んだチャンスが遠のいていく。雇用条件のいい仕事を継続できるのだから喜んでいいはずなのに、どうしても気分が上向かない。
「もう少し付き合ってほしいのよ。もちろん今までのようにオリヴァーが厳しい言葉をかけるようなことはさせないし、なんなら勤務時間や給与の見直しをしてもいいわ」
「はい……」
「それから最終的にどうするかは、あなたが選んでいいいということにしましょう。それがランカスタ家にとって望んだ結果でなくとも、父にも母にも、もちろんオリヴァーにも文句は言わせません」
「選んでいいとは、一体どういうことですか?」
「契約いっぱいまで勤めてくれるなら、あとはリリーの好きにしていいということよ。オリヴァーも子供ではないのだから自分の態度がいかに周囲を振り回したのか、思い知るべきです」
ロザリア様は扇の影で黒い笑みを浮かべる。さすがランカスタの薔薇、そんな表情でさえ絵になるほど美しい。
「それにリリーだって、このままでは納得いかないでしょう?」
ぐっと言葉に詰まる。たしかに、このまま辞めたとしても一生納得できるわけがない。だって面接のときから今まで意地悪をされる理由がわからないのだもの。未熟なのだから叱られたり、指導される立場だということは理解している。でもオリヴァー様が私にしたことは、結果的に私の価値を下げるようなことばかりだ。これを教育や指導と片付けるには度が過ぎている。私の体の見えるところに傷はなくても、見えない心は今でも傷つき血を流し続けていた。
「女だって矜持があることを思い知らせてやりましょう。それならあなたにとっても悪い話ではないと思うわ」
ロザリア様の声に顔を上げれば、部屋に残る使用人達が大きくうなずいている。オリヴァー様のことがあってどこかよそよそしいところのあった彼らが、かつて見たことのない親しみを込めた表情を浮かべていた。取り巻く空気が突然変わったことに驚いたけれど、今更だとどこか冷めた気持ちで計算する。契約期間は一年だから、最長でもあと半年。あと半年我慢して紹介状をもぎ取るつもりなら耐えられるかな。
最終的には迷いながらも、うなずいた。
そこから地獄は一変、ランカスタ公爵家は天国のようになった。
まず徹底的に配置と勤務時間の見直しが行われて、オリヴァー様と接する機会が激減した。もとから広い公爵家だけれど、ロザリア様の侍女として仕えながらオリヴァー様と全く会わないで仕事ができるなんて思いもしなかったのよ! それでも時折、鬼のような形相をしたオリヴァー様が近づいてくるけれど、一致団結した使用人によって逃げ道を確保され、オリヴァー様はロザリア様によってありとあらゆる手で進路をふさがれた。意図的にだろうがオリヴァー様が連絡もなく突然帰ってきても、情報はどこからか漏れているようで、やはり鮮やかな手際で連れ出される。
仕事面では、ときどき失敗をして叱られることもあるけれど、具体的にどこが悪いか教えてくれるから次は頑張ろうと思えるようになった。オリヴァー様に叱責されるのとは、やる気が大違いよ!
それだけでなくロザリア様や先輩方から似合う髪型やお化粧の仕方、アクセサリーやドレスの選び方、上位の方への細やかな気遣いに他国の礼儀作法までみっちりと指導を受けさせていただいた。おかげで自信もついて華やかで綺麗になったと知り合いや友達から言われるようになったの!
快適だ、使用人の皆様が頼もしい! そしてロザリア様、最高です! 正直この職場環境ならロザリア様が結婚されるまで勤めてもいいかなとまで思った、そんなある日のこと。
今までかすりもしなかったオリヴァー様と廊下で鉢合わせしたのだ。しかも待ち伏せしていたかのように、足を止めて廊下の壁に寄りかかっている。想定外の遭遇にうろたえて礼の姿勢をとるのが一拍遅れた。
……しまった、怒られる! いままでなら、すぐさま指摘されて叱りつけられるような場面だったから、頭を下げながら下唇を噛んで衝撃に備えた。そこから一秒、二秒、三秒……あれ?
それなのに叱る声が降ってくることはなかった。その代わりに、深々としたため息が聞こえる。これはもしかして呆れて言葉が出ないという意思表示……見限られたとすれば、それはそれできついものがあった。でもやってしまったものは仕方ない。気を抜いていた私の落ち度だ。オリヴァー様は何も言わないし、無言のまま時間が過ぎる。
そしてようやく、オリヴァー様が口を開いた。
緊張をはらんだ彼の低い声が紡いだ内容こそが……冒頭のやりとりに繋がる。
謝恩祭とは建国以前から続く行事の一つ。神に日頃の恩恵を感謝する祈りを捧げ、身近な人に日頃の感謝と愛を伝えるという愛に満ちた祭日だ。ランカスタ家でもこの日は最低限の使用人だけを残し、他の使用人は終日休みを取ることが許される。つまりなかなか会えない家族や恋人に感謝と愛を捧げてこいということね。だから愛にあふれた謝恩祭で告白するれば、かなわないと思われた恋愛ですら成就するとかなんとか。
さて、ここまでが私の記憶を振り返ってみた結果だ。
今までの経緯のどこに謝恩祭へと誘われる要素があるのか? 混乱する頭が落ち着くようにと警鐘を鳴らす。うろたえてはだめよ、とりあえず……ええそうまずは状況を確認しなくては!