第8章
それからしばらく僕は光希を失った喪失感から茫然としていた。しかし時間とともにその喪失感は薄らぎ、半年もすると普通の生活に戻っていった。僕はマンガを描くことをやめ、大学の工学の勉強に集中した。そして大学の推薦で電気機器のメーカーに就職し、そこで設計エンジニアとして働いた。社会に出ると新たな多くの出会いもあり、新しい恋人もでき、今の彼女は光希が消えてから既に3人目の恋人だった。そし光希が去ってから3年経ってそのはがきは届いたのだった。
僕は光希と会う約束をした。二人でよく通ったこじんまりした洋食のレストランで落ち合うことにした。僕が店に着いたときにはもう光希は席に座っていた。
「お久しぶり」僕の方から挨拶した。
「お無沙汰してしまいました。ごめんなさい」光希は深く頭を下げた。僕はお気に入りのビーフシチューを注文し、光希はこれも彼女が好きだったグラタンを頼んだ。
「あのときは本当に急にいなくなっちゃったから驚いたよ」
「ごめんなさい。でもあのとき、作品に集中すべきだ、そのためには生活を変えて集中しないといけないって心の声が叫んだの」
「それにしたって連絡が手紙だけって……」
「ごめんなさい。会ったら未練が出ちゃう気がしたので……」
「それで、今はどうしているの?」
「お蔭様で、雑誌社にも認められて、今はマンガ家として食べていけるようになったわ」
「それはすごいね。おめでとう」
「実はあれから一樹さんに会ったの」
「え?」
「あのときブナの森に行ったでしょ。あのブナの森に出会って私は気づいたの。私の作品には生命の力の要素が必要だって。 そして以前、同じような感覚になったことを思い出したの。一樹さんの絵。そして私は一樹さんに会ってその話をしたわ。そうしたら一樹さんも理解を示してくれて私のマンガを手伝いたいと言ってくれたの」僕は光希が消えた後も一樹さんとは会っていたが、一樹さんはそのことを一言も僕に言ってくれなかった。その後一樹さんは僕より1年早く大学を卒業して、その後は会ってはいなかった。
「私は一時期一樹さんの家で暮らしていたの。そして一樹さんと一緒にマンガを描いたわ。二人の作品は雑誌社の方にも評価してもらって、何回か雑誌にも載せてもらったわ」
「そうだったんだ。それはいつの話?」
「3年前。あなたと別れてから半年後よ。でもダメだった。私達の作品は読者の評判がそんなに良くなくて、一樹さんもマンガには飽きちゃったのか、そのうち自然といなくなったわ。今はどうしているかは私は知らない」光希は少し後ろめたいのかうつむきながら小さい声で話していた。
「私は人に頼っちゃダメだと気が付いて自分で創作に没頭したわ。幸い雑誌の編集の方が期待してくれて辛抱強く見守ってくれたの。そして昨年描いた作品がどうにか読者の評判を得て、今では月刊誌の連載を持てるようになったわ。そのとき改めて思ったの、『想い』が大切だって。私は自分の『想い』を精一杯吐き出して作品を描いているの」光希は話終えると顔を上げて僕を見つめた。
「良かったじゃない、希望通りマンガ家として食べていけるようになって」
「ありがとう」光希の目はちょっと涙目で以前の力強い目付きではなくなっていた。
「久しぶりにここのご飯を食べるけどやっぱり美味しい」
「そうね、この味が懐かしいわ」光希の顔にちょっと笑顔が出た。
「今はどこに住んでいるの?」
「中央線の郊外よ。アシスタントの人も来るので広めのスタジオが必要で、都心だと家賃高いから」
「僕は多摩川沿いのマンションに住んでいる。小さいけどマンションに一部屋買ったんだ」
「羽振りいいのね」
「毎日、残業の連続で忙しいよ。土日も休日出勤で出ることもあるし、出張すると1か月近く東京に帰れないときもある」
「大変なのね」
「これから家に来ない? お酒位ならあるよ」
「行っていいの?」
「もちろん」
僕はタクシーを拾って光希を自分の部屋に招待した。お酒が好きな僕は家にはスコッチ、バーボン、ジンにウォッカ、ワインに日本酒、焼酎など一通りのお酒をそろえていた。二人でソファに座ってお酒を飲んだ。お酒が入って光希の顔にも大分笑顔が戻っていた。二人で昔の思い出話などしながら盛り上がった。一笑いした後、光希がポツリと言った。
「以前のように戻れないかな?」
「え?」
「身勝手なのは分かっているんだけど」
「いいよ」僕は光希の肩を抱き寄せ口づけをした。
翌朝。僕はベッドルームのカーテンを開けた。両開きに思い切り開けたら快晴の外の朝陽の光がベッドの上に注いだ。
「眩しい!」光希が叫び声を開けた。
「おはよう、僕達の朝だよ」僕は光希の耳元に囁いた。心の中でピアノ協奏曲が流れていた。