第6章
その夜は、3人で飲んだ。
「樋口むつが好きなんだ」一樹さんが光希に話しかけた。
「はい、”時のざわめき”が特に好きです。後、”心のタワー”も好き。少年同士の関係と苦悩がうまく描かれていると思います」
「僕も好きだけど”心のタワー”はちょっとなあ。あの作品の描き方には僕は違和感を覚える。描写の視点が主人公だったり他の人だったり途中で変わる。それって作法としてはダメだと思うんだ」
「ふーん、そうかあ。僕はそこには気づかなかった」一樹さんはよく分析しているなと僕は感心していた。
「そうかもしれないですが、私は”心のタワー”を好き」光希は納得がいかないようでちょっとむくれていた。
「そういえばクラシック音楽も好きなんだって、聡から聞いた。好きな曲はどんなの」
「うーん、色々ありますけど、ラフマニノフのピアノ協奏曲が好きですね」
「いいね。綺麗な曲だよね。哀愁のある美しい旋律。ファンの人が多いよね」
「それってありきたりってことですか?」光希がそこにも引っ掛かったみたいで突っかかった。
「ごめん、ごめん、そういう意味じゃないよ。でも僕はもうクラシックは最近聞かないな。Jazzの方がいい。Jazzのオーリンは”クラシックはもう死んだ”って言っているし」
「私はそんなことはないと思います。今、聞いても良い物はたくさんありますよ。それに新たな楽曲も産まれています。まだクラシックは生きていると思います」
「まあ、人ぞれぞれだよ」僕はこれ以上揉めないよう間に入った。こうやってアートのことなどを語り合いながら3時間程3人で飲み、飲み屋を引き上げた。
「一樹さんってちょっと失礼よね。初対面の私の気が障るようなことをずけずけと言って」
「そんなに怒るなよ、ちょっとストレートなだけさ」二人で帰る道すがら光希が刺々しい口調なので僕はなだめるように言った。
「いや、怒っちゃいないわ。一樹さん、はっきりしていて、物知りだし、分析力もあって、いい先輩ね」光希の前を向く瞳に耀きがあった。結構、一樹さんを気に入ったみたいだと感じ、僕は少し嫉妬した。
それからときどき3人でも飲みに行くようになった。だいたい話のリードは一樹さんが取り、ときどき意見が合わずに光希と一樹さんは議論になった。そして僕は知識が追い付かないこともあり、どっちつかずの中間の立場で仲裁役になった。そうして3人で過ごしているのは楽しかったが、やっぱり僕にとっては光希と二人でいる時間が一番貴重で大切なものだった。冬のコミケで1冊本を出し、春には僕も光希も大学の3年生になった。そろそろ卒業後どうするか考える必要があった。僕はとてもマンガ家として食べて行く自信はなく工学の道を進みどこかの会社に就職つもりでいた。しかし光希はマンガ家になりたいと思っているようだった。
「今度、旅行でも行こうか?」僕は光希に提案した。都内で日常を送りながら悩んでも気が滅入るので気分転換してみようと思ったのだ。
「いいけど、もうすぐ梅雨だよ」
「梅雨が遅い、あまり雨の降らないところに行けばいいんじゃない。東北は?」
「いいよ。まだ行ったことないから」
「よし、東北の温泉でも行ってゆっくりしよう」