書籍化記念閑話 迷った話
迷ったのである。
ある夜会に出た時の事である。私は勧められてちょっとお酒を飲み過ぎた。
私はそれほどお酒に強くなく、普段はあまり飲まないようにしている。しかし、お酒の好きな人は人に勧めるのも好きだし、それが身分高い人なんかだとお断りもし難い。
それで私は勧められるままにワインを三杯ほど飲んだのだけど、それでちょっと気持ち悪くなってしまったのだ。
足元もおぼつかなくなり、これはいけないと思った私は「ちょっと席を外させて頂きます」と言って広間を出たのだ。
広間を出て廊下を歩いてバルコニーに出てホッと一息だ。少し休ませてもらってから戻ろう。
そこは子爵家のお屋敷でかなり大きくて広かった。ただ、廊下と広間以外は灯りが灯されておらず暗い。私は勝手に歩いて暗い部屋をいくつか通過してバルコニーに出たのだった。
もちろんバルコニーは暗く、見下ろす庭園も真っ暗だ。夜風は少し冷たいけど、耐えられないというほどでもない。私はバルコニーの手すりにぐったりともたれかかり、風に当たって酔いを和らげようとした。
うー、きもちわるい。なんでみんなわざわざあんなもの飲むのかしら。飲まないと不自然みたいだから私は飲んでるけど。
……しばらく休んだら少し胸のむかつきが治ったので、私はバルコニーを離れ、屋内に戻った。もうほとんど商品は売れなくなっているとはいえ、今日は販売会なのだ。商品の説明が出来るのは私だけなので、私がいなければお父様たちが困るだろう。
そう思って私は夜会が行われている広間に戻ろうとしたのだが……。
見事に迷ったのである。
貴族のお屋敷はいくつもの部屋が繋がっていて、その中を通り過ぎないと目的地に辿り着くことが出来ない。そして部屋には複数の出入り口があるのが普通だ。
なので知らないと非常に迷い易いのだ。しかもこの時はどの部屋もほとんど真っ暗だった。私は平民生活で暗闇には慣れているから普通に歩くことは出来たけど、さすがに部屋の内装までは見えない。なので覚えられなかったのだ。
どこかの部屋で出る扉を間違えたのだと思う。あれ〜?
ここどこかしら……。気が付けば私は自分がどこにいるかもわからなくなっていた。部屋がいくつも連なる中をうろうろと歩き回る。
窓はあって月明かりは差し込んでいるけど、庭園を見てもどこだかわからない。なんとなく夜会のさざめきが聞こえる気もするんだけど、その方向に行こうとすると部屋の構造上反対方向に導かれたりする。
途方にくれてしまう。広過ぎでしょうこのお屋敷。こんなに広くて何に使うのよ! 私は思わず癇癪を起こした。こんな大きなお屋敷でも、実は帝国貴族の屋敷としてはこじんまりとしている方なのだ、とはもう少し後に知った話だ。公爵邸とかもの凄かったからね。
どのお部屋も様々な調度品で飾られていて、月明かりが差し込むとキラキラと輝いている。部屋を広く見せるためと明るくするために鏡がたくさんあって、そこに困惑する私の姿が映っていた。
……どうして私、こんなお貴族様の格好をしてこんな遥かに遠い帝国なんかに来て、挙句に道に迷ってウロウロしているのかしらね。私は思わず吹き出した。ちょっと面白くなってきてしまったのだ。自分の境遇が。
それにしてもこれ以上人のお屋敷の中を勝手に動き回るのは良くないと思う。泥棒と間違えられないとは言えないもの。何しろ子爵家のお屋敷という事は相手は子爵様。シュトラウス男爵家より格上なのだ。難癖を付けられて厳しい罰を受ける可能性もある。
焦ったのと動き回って酔いが回った事もあり、私は再び気分が悪くなってしまった。私は「うーん、どうしよう……」と呟きながらその場にうずくまった。
すると、頭から声が降ってきた。
「大丈夫か? 男爵令嬢」
へ? っと思って顔を上げると、黒い大きなものがぬぼーっと立っていた。
「ひっ!」
と思わず驚いてしまったが、その黒い大きなものの上には銀色のキラキラしたモノが乗っていた。そして緑色の輝きが私を見つめている。
「……公爵様?」
最近夜会に頻繁に来て下さるようになった麗しの公爵様。イリシオ公爵様だった。
「……こんなところで何をしていらっしゃるのですか?」
「それはこっちのセリフだ。君がどうしてこんな所にいるのだ。ここは夜会の会場ではないぞ?」
公爵様は呆れたように仰った。それは私にも分かっている。私は正直に言った。
「迷ったのです」
「迷った?」
「お屋敷が広過ぎて。もうへとへとです」
すると公爵様は「ワハハハハハ」と大きな声で笑った。優雅なお姿に似ず豪快な笑い方だったわね。軍人らしいとも言える。
「ふむ、笑い事ではないな。我が公爵邸でも新入りの召使いが迷って三日後に半死半生で見つかった事があるらしいからな」
……それは恐ろしい。確かに間違って外からしか開けられない倉庫にでも迷い込んだら中で餓死しかねない。
私がプルプル震えていると、公爵様はまた大笑して私の手を取って引き起こしてくれた。
「? どうした足元がふらついているな」
公爵様鋭いな。私は彼の手の温かさにホッとしながら応える。
「お酒を飲み過ぎてしまいました。それで中座して休んでいたら迷ってしまったのです」
公爵様は眉を顰めた。
「自分が酒に弱いのは知っている筈ではないか。なんで飲むのだ」
「お薦めくださったのが伯爵令息でしたので、お断り出来ませんでした」
公爵様はますます不機嫌になり、ふらつく私を腰を抱いて支えながらこう仰った。
「今度からは『イリシオ公爵に飲むなと言われている』と言って断りなさい。……危ないからな」
帝国で二番目にお偉い公爵様の仰せなら守らないと不敬に当たる。それなら相手が身分高いお方でもお酒の勧めをお断り出来るだろう。ありがたい仰せだった。
公爵様にお会いしてホッとして気が緩んだのか、余計に頭がぐるぐるしてきた。明らかに足どりが怪しくなった私を見て、公爵様はご自分の従卒に「水を持ってこい」と命じて走らせた。そして私をその部屋にあったソファーに導いた。
「ここで横になるといい」
「……公爵様の前で失礼では……」
「いいから」
私は公爵様に押し倒されるようにして横になった。途端に全身に力が入らなくなり、私はデレっと溶けるようにソファーに寝そべる。その様子を公爵様は一瞬凝視して、そしてなぜか顔を背けた。
「……吐けるなら吐いてしまった方が楽になるぞ」
そう言われてもこんな豪奢なお部屋を汚すわけにはいかないし、ドレスを汚しても大変だし、そもそもそんな無作法を公爵様に晒すわけにもいかない。我慢するしかない。
「……平気です。少し休めば、大丈夫です……」
「無理はするな」
公爵様のお声がずいぶん近くで聞こえる……。と思ったら、公爵様はソファーに寝ている私のすぐ横の床に膝をついて、ソファーの肘掛けに身体を預けながら私を間近から見下ろしていたのだった。
……ぎゃー! 公爵様に膝を汚させてしまってる! 跪く事が最大の敬意を表す挨拶である事が示す通り、膝を汚す、汚させるというのは余程のことなのだ。私の看病のために公爵様が膝を汚したなどという事が社交界に知れたらとんでもない事になる。
というか、いくら背が高い公爵様でも膝をついていれば頭の位置は大幅に下がる。それこそソファーの上に寝そべる私の顔のほんの間近になるくらいに。
そう。公爵様の心配そうな美貌が本当に目の前にある。近い。ダンスで寄り添う時よりも更に近い。
「ふむ。顔が赤いな。いかんな。潰れるほど酔っては」
酔っているのは事実としても、こんなに顔が熱いのは公爵様がそんなに顔を近付けているからでもあると思います! お顔から遠ざかろうにも、私はまたろくに動けもしない。
なるほど。これは危ない。お酒は危ない。飲みすぎるとこんなに身体の自由が効かなくなるのね。気をつけよう。
公爵様は私のドギマギ顔を見ながら、従卒が持ってきた水や濡れタオルなどを使って私を看病して下さった。手慣れた様子だったので尋ねると。
「士官学校時代は酔い潰れた同級生の介抱など日常茶飯事だったからな」
と仰った。
そんな風にして介抱して頂いて、しばらくしたら胸のむかつきやグルグル回る感覚はようやく落ち着いた。代わりに頭痛がするようになってきたが公爵様曰く「それは多分、明日の朝まで続くぞ」ということで、私はうんざりした。私、もうお酒飲まない。絶対。
公爵様の腕に縋って立ち上がり、そのまま彼のエスコートで歩き始める。
「ふむ。まだ足どりが怪しいな。少し歩こうか」
公爵様はそう仰って私の手を引いて歩き始めた。その足取りには迷いがない。
「よそ様のお屋敷なのにどうして迷わず歩けるのですか?」
「貴族屋敷には様式があるからな。どこもそれほど変わらぬ」
とは仰るけど、公爵様の方向感覚が特にいいのもあるんだろうね。程なく私たちは下り階段に辿り着き、そこを降りて下のお部屋を抜けて庭園に出た。
月は半月でそれほど明るくはなかったけど、灌木と花壇で構成された庭園は薄らと見えた。公爵様の従卒がランプを持ってきたけど、公爵様は「いらぬ」と断った。
暗い庭園を公爵様と二人で歩くのはなんだか不思議な気分だった。公爵様はなんのつもりで私をお庭に連れ出したのだろうか。私たちはそれほど親しいわけではない。社交でよくご一緒するだけの関係だ。
私もスパイの端くれなら、こんな良い機会を得たなら、公爵様から重要情報を得るために色々画策するべきなのかもしれないんだけどね。でも、そもそも私はお父様の知りたい重要情報がなんなのか知らないのだ。
そんな事を思いながら時折私は顔を上げ、月明かりに銀色に輝く公爵様の事を見上げる。帝国で二番目にお偉い方だというのに、全然気取っていないし、偉そうでもない。貴族の中には私が男爵令嬢だと侮って高圧的に振る舞う方も少なくはないというのに。
公爵様も時折私を見下ろして、フッと笑う。柔らかくて美しい笑顔。社交に出るとご令嬢が殺到してくるのも納得な麗しさだ。
ここ最近、公爵様はシュトラウス男爵一家が出る夜会に必ず現れ、主に私とお話をして下さっている。私なんかを相手にせず、もっと他の華やかなご令嬢を相手にすればいいのにと思うこともある。あまりにも私とばかり話したがるから、お父様はシュトラウス男爵家がスパイだと疑われているんじゃないかと心配していたけど……。
「ふむ。もう大丈夫そうだな」
気が付けば私の状態はすっかり落ち着いていた。私の全身を見回しながら、公爵様は少し意地悪げに唇を尖らせた。
「次に潰れたら介抱してやらぬからな。二度と酒を飲むでないぞ。心することだ」
その揶揄うような口調に私は赤面しながら反論する。
「ちょ、ちょっと飲むくらいなら平気です! もう公爵様にご迷惑はお掛け致しませんわ!」
私の言葉に公爵様は声をあげて笑い、私も思わず釣られて大きな声で笑った。そして私たちは腕を組んで歩いて、夜会の会場に向かったのだった。
……後日、あの時公爵様は夜会の会場に私がいなかったので、心配して屋敷の中を探して下さったのだという事を知った。
そしてしきりになにかというと「あの時のイルミーレは色っぽくて可愛かった。また飲み過ぎてみて欲しいな」と私をずっと揶揄い続けたのである。
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