親友
「甲斐、準備しとけ。佐々木のところで代打だ」
八回の表、6対4でこちらがリードしている場面。仁王立ちになってサインを出している監督にようやく出番を告げられた俺は、はいと返事をしてバット立てから自分のバットを抜きとった。
今日は日曜日で、今まさに練習試合が行われているところ。練習試合はよほどのことがない限りはいつも二試合行い、おおむね一試合目は公式戦のレギュラー陣で、二試合目は普段控えの部員中心にという戦い方になっている。今は第一試合の方だから、ガチで勝ちにいっている試合。そういう試合で使ってくれるということは、代打としての俺の能力は一応認めてもらってると考えていいのだろう。
一塁側ベンチの一番奥、ブルペン側の空いたスペースで俺は軽く素振りをする。試合の合間合間で動かすようにしておいたから身体はすでに十分温まっているのだけれど、ネクストバッターズサークルに入る前にちょっとは振っておかないと何となく不安になるのだ。
「頼むぜ、正人。何てったって、この俺の代打なんだからな」
「何言ってんだ、お前の打率一割台だろ」
ニヤニヤしながら話しかけに来た佐々木に、他の部員が突っ込みを入れる。
「うっせえ、今日一本打ったんだからもうすぐ二割に乗るんだよ」
佐々木がすぐさまそう返すと、マネージャーの書いているスコアブックを横から覗いた誰かが「あの当たり、記録だとエラーらしいぞ」と言ったのでベンチにどっと笑いが起きた。
「そんなあ。強襲ヒットにしてくれよお」
情けない声で佐々木が言うと、笑い声がさらに大きくなる。さすがに見かねた監督の「試合に集中しろ」と言わんばかりの視線に晒されると、みんな慣れた様子ですぐさまフェアグラウンドに目を戻した。
でも、俺は知っている。こうやってみんなの前で道化を演じている佐々木だって、自分のところに代打を出されて本当は悔しいんだ。他のやつももちろんそれを分かっていて、佐々木の場合は変に気を使うよりは普通にいじった方がいいと無意識の内に判断しているのだ。
この回の先頭打者である敬太が四球で出塁し、次の打者が右打席に入る。佐々木はその次の打順だったから、Lサイズのヘルメットを被った俺はネクストに入った。その俺に向かって敬太が一塁ベースから親指を立ててくる。あれはおそらく「御膳立てはしてやるから決めろよ」という意味のジェスチャーだ。
ベンチを振り返ると、バントのサインを出す監督が見えた。監督は思ったより俺の打力を信頼してくれているみたいだ。「本当にそれでいいの?今ならまだ間に合うからサイン変えたら?」というビビった気持ちと「よし、そこまで信じてくれるならいっちょやったるか!」という気持ちが混ざり合ってぐちゃぐちゃしている。
考えすぎなのはもちろん分かっている。実際、エースを張っていた頃の俺ならもっといけいけだったし、打席に入る前にこんなに色々と考えたりはしなかった。でも今は一打席一打席に俺の進退がかかっているわけで、ピッチングの合間の気分転換くらいの感覚だったあの頃とは訳が違うのだ。
バッターは、監督のサインを初球で忠実に実行した。一塁方向に転がる勢いの殺されたボールを投手はファーストベースに向かって投げ、その間に敬太が進塁する。これで1アウトランナー二塁。野球界では「得点圏」と呼ばれる、一本のシングルヒットで得点できる可能性のある重要な局面だ。
俺は一つ息を吐くと、監督からサインが何も出てないのを確認してから審判に挨拶して打席に入った。ネクストで余計なことを考えてしまったためか、緊張で身体が強張っているのが自分でも分かる。こういうことは初めてではないけれど、過去に同じ経験があるからといってそれが役に立ったりすることは別にない。つまり、この打席はおそらく打てない。
初球は甘めのカーブを見逃し、二球目は高めのストレートを空振りしてあっという間に2ストライクと追い込まれてしまった。俺が打席に入るときには盛り上がっていたベンチも、ストライクのカウントが増えるたびに「何やってんだよ」というため息に変わってきた。心なしか監督の表情も険しくなっている気がする。
一度心を落ち着かせようと思い、打席を外した。ふとレフトの向こうにあるグラウンドを囲むネットの奥を見ると、そこには見覚えのある少女が目立たない位置でカメラを構えていた。名取だ。わざわざ野球部の練習試合を観にくるヤマ高女子などなかなかいないから、もし誰かが気付いたら「おい、ヤマ高の女子が試合見にきてるぞ。誰目当てなんだ?」なんて噂していたはずだけど、彼女の位置はここからだと距離があるうえに、校舎の張り出した部分のせいでベンチからだと見えない角度だから皆気付かなかったのだろう。
実を言うと、試合が始まる前までは昨日名取の言っていたことを思い出して、名取がくるのを今か今かとソワソワしながら待ちわびていた。ただ、結局彼女の姿は見えなかったし、試合が始まるとそちらに意識を集中させていたので、今の今まで俺は名取のことをすっかり忘れていたのだ。
俺が名取を見つけたとき、パッと頭に浮かんだのは昨日二人で見た夕焼けに赤く染まる街並みだった。すると何故だか分からないけどすっと心が落ち着きだして、動物的な感覚に身体を委ねることができた。
結局、俺が相手投手のボールをバットでしっかり捉えたのは4球目のことだった。低めのストレートを上手く叩くと、打球はピッチャーの足元を抜けていきそのまま二塁ベースをも超えていった。センター前ヒットだ。
打球の勢いが強くてセンターが捕球までの時間が短かったので、敬太は三塁で止まるかなと思って走りながらちらりと三塁ベースの方を見た。するとコーチャーが全力で腕を回して「突っ込め!」というサインを出し、それに従って猛烈な勢いでホームベースに突入するあいつの姿が見えた。
ボールを捕球したセンターのホームベースへの返球はそこそこ球威があり、何より正確だった。しかも軌道が低くて内野手がカットをする可能性があるから、うかつに二塁へ行けない。
敬太がホームベースに辿り着くのよりほんの少しだけ、相手校のキャッチャーがボールを捕球する方が早かった。この瞬間を待ち構えていたとばかりに思い切りよくコールする審判の「アウト!」という声が一塁上の俺の耳に届いた。
「最近正人、バッティングの調子良いよな」
帰りの電車の中で、野球部主将の島崎がふと思い出したかのようにそう言った。
「そうかな」
急に自分の話題になったのにびっくりした俺は、とりあえずお茶を濁すことにした。自分の調子の良し悪しは、自分が一番よく分かっている。まあ今日の場合は、調子云々ではなかったけど。
「そうだよ。なあ」
「確かに、わりと代打で打ってるイメージある」
島崎が他のやつに同意を求めると、他の部員もそれに賛同する。
「そりゃあ調子はいいだろ、なあ正人?」
一人敬太だけが、まるで全てをお見通しであるかのようだった。なんとなく不気味に感じた俺は「まあな。最近ヤンケル飲んでるから」と適当にごまかしておく。ヤンケルはバリバリのメジャーリーガーとして活躍したジローという野球選手を使ったCMが有名で、飲むとそのジローみたいに活躍できると冗談まじりに言われていた。敬太以外が俺の冗談に笑っているのを見て、上手くいったかと少しホッとする。
俺と敬太だけ降りる駅が同じなので、他の部員と別れて二人ホームに降り立つ。ホームから階段を使って改札口に降りる最中、俺は先ほどから引っかかっていたことを敬太に聞いてみた。
「さっきの、なんだったんだ?」
「さっきのって?」
敬太は明らかにとぼけている様子だった。ニヤニヤ笑いながらこちらを見つめてくる。どうやら俺の方から言わせたいようだ。主導権を握られているようでなんとなくむかつくけど、俺はこいつに隠し事ーー名取と最近会っているーーがバレそうになっている立場なわけだから、我慢するほかない。
「なんかまるで、俺のことは全部わかってるみたいな感じだったじゃないか。それが気になってたんだよ」
「そんなこと俺言ったかな?正人に何か思い当たる節があるからそう思っちゃうだけなんじゃないか」
こいつ、どこまでも白を切るつもりだ。それならもう言ってしまえとやけくそになった俺は、「名取のことだよ。今日気づいてたんだろ、お前は」とはっきり口に出した。ここまでくると、もう後戻りはできない。
「もしかして、今日あの子来てたの?正人も隅におけないなあ。やるじゃないか」
「え、敬太は見たんじゃないの?名取がいるのを。レフト側のネットの奥に」
「知らねえよ、そんなこと。むしろ今お前の口から聞いて知ったわ」
俺は敬太と少しばかり見つめ合った。敬太は相変わらずニヤニヤ笑いを口元に浮かべていたが、目は真剣だった。嘘は言っていないのだろう。
俺は無駄に情報を出してしまったことに気づき、思わず頭を抱えた。
「なんだよ、じゃあ俺の言い損じゃないか」
「そうだな。実際、俺は本当に何も知らないから。ただ鎌をかけただけ」
「マジかー。てことは当てずっぽう?」
「だからそう言ってんじゃん。名取と上手くいってるから野球の方にも幸せが溢れてるのかなあ、て予想しただけのことよ」
特に得意げになるでもなくしごく当たり前のことという感じで敬太は言うけど、そんなに簡単に人の心が読めるものなのか。というか敬太の解釈だと、俺が名取に恋しているみたいになってるが……。
「まあ、真面目な話」
敬太は急に真剣な表情になった。
「最近正人が良い顔してるから、名取も悪いやつじゃないんだなって思うことにしたよ。個人的にはああいう何考えているのか分からないやつは苦手だけどね」
「……おう」
どうやら敬太は、なんだかんだいって怪我をした俺のことを心配してくれているらしい。その気持ちは俺には少し重たかったけど、同時に嬉しくもあった。