自覚
「それで、この間言ってた子とは、今どうなってるの」
俺がレントゲン室から診察室に戻ると、開口一番先生が尋ねてきた。俺は早くも、以前この人に名取について話したことを後悔し始めている。
もうこうなったら隠してもしょうがないと、今日もこれから会う予定があるということを先生に伝えた。先生はこの間と同じように目を輝かせて、「青春だねえ」とため息をつく。
「その話はいいですよ。それより、自分の肘はどうなってますか」
無理やり話を逸らすと、先生はようやく自分の仕事を思い出したかのように「ああ、肘ね」と言った。「おいおい、この先生本当に大丈夫なのかよ」と正直思ったが、なるべく顔には出さないようにする。
「レントゲンを見る限りでは、順調そうだね」
「じゃあ、もしかしたら……」
俺が期待を胸に滲ませながらそう呟くと、先生は真顔になって「残念だけど、それはない」と言い切る。
「夏に投げるようなことがあったら、本当に今後の日常生活に関わるからね」
「まあ、そうですよね」
一度は納得したはずだったけど、どうしても未練は残っているらしい。先生の忠告にうなずきながら、俺は心の中で自嘲した。
俺の様子を哀れに思ったのか、先生はわずかに悲痛そうな表情を見せた。
「君の気持ちはよく分かる。でも、今は我慢の時期だ。幸いなことにバットを振るのは大丈夫なんだから、打撃でチームに貢献してもらうしかないんだよ」
先生の「よく分かる」という言い方には気持ちがこもっていて、その場凌ぎで言っているようには聞こえなかった。そのためか、彼の言葉は俺の心に沁みわたっていった。
病院を出て駅に向かう途中で、俺は考えていた。野球のことではない。名取皐月という女の子のことだ。
先生は俺と名取のことを恋人かなんかだと勘違いしているが、実際にはそうではない。でも、じゃあ何なのかと言われると、言葉にしづらいのも確かだ。少なくとも友達という感じではないし、知り合いという言葉よりは深い関係のような気がする。それも、ほんの少しだけ。そもそも、言葉でいちいち人間関係を定義しようとすること自体が、間違っているのかもしれないけど。
二週間前と同じように駅前にある謎の赤いオブジェの前に制服姿の名取がいるのを見つけた俺は、いったん脳内に巡らせていた考えを保留する。
「そういえば、名取は部活入ってないんだよな?」
高台に向かう途中で、以前と同じように俺の少し前を歩く名取に尋ねてみた。この間は目的地まで無言で歩き続けていたが、この二週間で俺と名取の距離はこういうことを質問できるくらいには縮まった、と見ている。あくまで、俺の主観だけど。
「うん。写真部があったなら、本当は写真部に入りたかったんだけどね」
少しだけ先を歩いていた彼女は、こちらを振り返ってそう答える。
「なんでそんなことを聞くの?」
「名取に興味があるから」
「興味?私に?」
立ち止まった彼女は、意外だと言わんばかりの表情で俺のことを見つめる。
「そう、名取に」
「ふうん……」
それ以上名取は何も言わずに再び前を向いて歩き出したが、俺はそのことを非常に幸運に思った。なぜなら、自分が今しがた言ったことの重大さに気付いて、深い羞恥の心に包まれていたからだ。顔が火照らせ、後悔のために表情を歪めるその様子は、側から見れば梅干しのようだっただろう。だって、『名取に興味があるから』だぜ。まるで手慣れたナンパ師のような発言じゃないか。
そうして恥じらいの気持ちから俺が何も言わなくなると、名取の方は元々無口なものだから、再び俺たちの間には沈黙が舞い降りた。ただし、今日の沈黙は、二週間前と違って非常に気まずい。といっても気まずさを感じているのは俺の方だけで、彼女はどうせ何とも思ってないのだろうけど。
俺が心の中でそうやって独り相撲をとっていると、いつの間にかあの高台に着いていた。そういえば、前はこの場所を俺に紹介するという名取の明確な目的があって来たのだけれど、今日はなぜここなのだろうか。何も疑問を持たずにこうしてのこのこついて来たわけだが、今更ながら謎だ。
高台にぽつねんと置かれているベンチに、二人で座る。前来たときには思わなかったが、このベンチからは何か哀愁のようなものが漂っている気がする。子にも孫にも介護されず、見捨てられてしまった老人のような。
そもそもこのベンチは、ここ二週間で俺たち以外に客人を迎えたのだろうか。何せこの場所は、まったくもって目立たないのだ。誰も来ていなかったとしても不思議ではない。
それとも、名取と同じようにここを見つけた人が別にいて、その人がまた他の人にこの場所を教えて……というふうに、俺の知らないところで別の物語が進行しているのだろうか。
「私の方は、昨日終わったよ」
取り留めのないことをぼんやりと考えていると、名取が唐突に口を開いた。彼女はいつも、前置きが無い。だから、何を言っているのか一瞬頭がついていかないということがよくあるけど、今もその例外では無かった。
「終わった?何が」
「何がって」
そう言って正面の景色から目を離し、まともにこちらを見据えた名取は無表情だったけど、どことなく怒っているようにも見えた。
「コンクール。写真コンクールの応募が終わったの」
「ああ、そういうことか」
「忘れてたの?」
二週間前に彼女の言っていたことを思い出して膝を打つ俺を、冷たい目で見据える名取。うん、頼むからそんな目で見ないで欲しいな。
「まさか。ちょっと反応が遅れただけ」
「ほんとかな。怪しいな」
「ほら、日本の司法では『疑わしきは罰せず』て言うだろ」
「でも、それは罰するのが駄目なだけで、『疑わしきを疑う』のは自由なんじゃないの」
「……」
完全に論破されて黙り込む俺を見て、名取はクスクスと笑った。彼女の笑うところは今まであまり見たことがなかったので、新鮮な気持ちがした。どのくらい新鮮だったかと言うと、築地市場のマグロくらい。ちなみに築地には行ったことがない。
「だから、後は結果を待つだけ。これで予選を通ってたらまだ首の皮一枚繋がるし、駄目なら」
彼女はその先を言わなかったが、要するに「駄目なら終わり」ということだ。そのくらいは俺にも分かる。
「そっか。なんか寂しくなるな」
「寂しい?」
名取は不思議そうに首を傾げる。もどかしい。俺はそう思った。彼女に俺の気持ちが伝わってないのももどかしいし、それを直接伝えるのを恥ずかしがっている自分ももどかしい。
「そうだよ、寂しいの。だって、仲間意識みたいなものを俺は勝手に感じてたから。お互い道は違うけど、目標に向かって頑張ろう、みたいな?そういうのを感じてたんだよ、こっちは」
急にやけくそになった俺はベンチから立ち上がると、正面の夕焼けに目を据えて、決して名取の方を見ないようにしながら叫ぶようにそう言った。左隣で座っている彼女の様子は見えないけど、突然奇行に走った俺を見て驚いたことだろう。
永遠にも感じられるほど長い沈黙が続いた。いや、もしかすると実際には数秒だったかもしれないけど、その時「ああ、やっちまった」と思って自分を恥じていた俺には、その時間がとてつもなく長く感じたのだ。
ともかくその「長い」静寂の後、名取もまるで俺に倣うかのようにベンチから立ち上がった。
「そう言ってもらえるのは、嬉しい……かもしれない」
彼女がそう告げたとき、胸のあたりから身体全体へと、ぽかぽかとした何かがじんわり広がっていくのを俺は感じた。「熱き青春の血潮」」とか時々言うけど、それってまさにこんな感じなのかもしれない。ちょっと違うか。
今自分が見ている世界が現実なのかを確認するために頬をつねってから、こっそりと目だけを動かして名取の方を見る。彼女は、さっきの俺と同じように赤い夕暮れをじっと見つめていた。こちらには目をやろうともしない。表情こそいつも通りだけど、これはもしかしたら名取も照れているのかもしれないな。そういうお馬鹿な解釈をして、一人にやけそうになるのを堪える俺のことを、今日ばかりは許してください。神様。
ただ、何となく良い雰囲気になっているのを感じつつも、そこからどう次の展開に持ち込めばいいのかが分かるほど俺は経験豊富ではなかった。彼女が立ち上がったせいで、座るタイミングも失っちまったし。手でも繋げばいいのか?いや、そんなの俺には絶対無理だ。
「日曜日って、練習試合なんだっけ」
そんな俺を救ってくれるかのように、名取が話しかけてきた。話の先行きが分からない俺は、「そうだけど」と慎重に応じる。
「つまり、明日も試合はあると」
「そうなるな」
「学校で?」
「そう」
「じゃあ、見に行ってもいいかな。試合」
俺は思わず、身体ごと向きを変えて名取の方をまともに見た。彼女はあいもかわらず、街並みの方に目を向けている。
「見るのはいいけど、俺代打だから。出るの一瞬だぞ」
そう俺が言うと、名取は初めてこちらの方に顔を振り向けた。その怪訝な目は、「この人は何を言ってるんだ」と言わんばかりだった。
「大丈夫。野球を見に行くつもりだったから」
彼女が何を言いたいのか、俺にはすぐに分かった。恥ずかしさに顔が熱を帯びるのを感じる。何が「名取も照れているのかもしれないな」だ。気持ち悪すぎるぞ、さっきの俺。
「あ、そうだよな。わりい、なんか勘違いしてたわ。野球はいいスポーツだよ、うん。まじで」
無理やり自分の失態をごまかそうとしたものの、手遅れ感が半端なかった。本当に、過去三分間くらいの記憶を消去してやりたい。もしくはSNSのコメント削除機能みたいな感じで、該当部分の自分の発言だけを削除したい。
「もちろん、甲斐も見たいんだけどね。代打楽しみにしてるから」
ほんの少しだけ口角を上げる名取。そこで初めて、彼女にからかわれていたことに俺は気づくのだった。むかつくけど可愛いよ、チクショー。
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