目指すもの
数日が経ち、名取との予定の日がやってきた。
土曜日はいつも午前中だけ授業があって、午後には部活がフルで入る。ただ、四時半に診察の予約がある俺は例外で、部活を早退して学校の最寄り駅にほど近い場所にある村山整形外科に来ていた。
受付の女性に呼ばれてから診察室に入っていくと、村山先生がキャスター付きの椅子に腰掛けて待っていた。いつも通りの快活な声で「こんにちは」と挨拶されたので、こちらも同じように挨拶してから手前の椅子に座る。
「どうかな。最近は」
「特に何事もなく……という感じですかね」
先生は雑談を好む。怪我以来二週間に一回のペースでここに通院しているけど、故障した肘の話より怪我とは関係のない雑談をした時間の方が長いかもしれない。時間内にできるだけ患者を裁くという観点ではあまり賢い手段ではないのかもしれないけど、俺はこの人が嫌いになれなかった。
「本当かな?ちょっと明るくなったような気がする」
「まあ、細かいことを言うと、全く何もなかったという訳ではないです」
あっさりと白状する俺に先生は「ほらね」という顔をしてから、「良ければ、何があったのか聞かせてくれないかな」と尋ねてきた。
俺は名取のことを、先生に話そうかどうか迷った。いや、話すこと自体に問題はない。問題はないのだけれど、先生はこういう話に目を輝かせそうだし、そもそも俺と彼女の関係についてどう説明すれば良いものか。
迷った末に、ここ二週間ほどの間で彼女との間に起こったことを話すと、案の定先生は目をきらきらさせた。
「何て面白い話なんだ。そんな青春っぽい話、僕が学生の頃はついぞなかったよ」
「いや、本当にそんなんじゃないんですって」
「そりゃあ、今まさに青春の渦中にいる君はそう思うんだろう。しかし、側から見ている分には光り輝いて見えるもんなんだ。眩しすぎて直視できないくらいに」
「やめて下さいよ。おおげさですよ」
「それで、今日はこの後デートなんだって?」
ニヤニヤしながら、先生はそう俺に尋ねてくる。なんだかんだ言って先生は聞き上手なものだから、この後名取と会うことまでついうっかり口を滑らせてしまったのだ。完全に失敗だった。
散々弄られた後で肘についても診てもらった後(こういう風に話すとまるで診察がおまけのようだけれど、実際その通りで、診察はおまけだ)、俺は病院を後にした。
でも先生の言うとおりよく考えると、いや、よく考えなくてもこれはデートなのかもしれない。あくまで客観的にみれば。
病院を出て駅の周辺を少しぶらぶらしてから、待ち合わせの目印である奇妙な形の赤いオブジェの前に向かった。オブジェはよくよく見ると人型だけど、デフォルメされ過ぎていて二足歩行の未確認生物のように見える。近づいてみると、制服姿の名取がすでにそこにいて、いつもの無表情のまま軽く手を挙げて挨拶してきた。
「ごめん、待たせた?」
「大丈夫、待ってないから」
名取の「待ってない」の言い方には、小説や漫画に出てくるデートにありがちな「本当は楽しみですごく早く来ちゃったけど、でもそれを言うと相手に気を遣わせるだから嘘をついておこう」というような可愛らしい響きはまるでなく、むしろ言葉通り本当に待ってないから、謝る必要もないというニュアンスが出ていた。
「早速だけど、行こう。今日は思ったより早いみたいだから、少し急いだ方がいいかもしれない」
「行こうって、どこへ」
俺の当然の疑問に、もう歩き出していた名取はこちらを振り返って「それは着いてからのお楽しみ」と言う。その言葉を信じて、俺は大人しく彼女について行くことにした。
駅から離れる方向にしばらく歩いて行くと、視界の左右からビルが消え、住宅街に入った。どこに連れて行かれるのだろう、とますます疑念を募らせる俺をよそに、名取は黙々と先を行く。会話はないけど、特に気まずいとも思わなかった。
すると、右手に遊歩道が現れる。左右には木々に青々とした葉が生い茂り、その葉が歩道に影を落としていた。昼時なら自然が多く涼しくて過ごしやすい場所なのだろうけど、夕暮れ時のためか何となく怖そうな雰囲気がある。俺の少し先を歩いていた名取は、迷いなくそこに足を踏み入れて行った。半ばやけくそになりながら、俺も後に続いた。
遊歩道を行くと、今度は左手にそこそこ急な階段が現れた。彼女はその手前で久しぶりに「もう少し」と声を発すると、スピードを緩めずに階段を登り始めた。え?もしかして今、俺は励まされたのか?なんて考えている暇もなく、俺も階段をあくせくと登る。
それほど長い階段ではなかった。先に登り終えた名取が上の方で「着いた。ほら、早く」と俺を急かしてくる。それにしても、彼女は随分体力があるな。これでも運動部だから体力にはそこそこ自信があるけど、名取も相当歩き慣れているように思える。
ともかく、俺も階段を登り切った。階段の先は視界が開けていて、目の前にはまさに今沈もうとしている夕日が、そして下の方にはこの辺りの街並みが見える。
「随分高いところに来てたんだな」
そう呟く俺に、「そうでしょ」と頷く名取はまるで自分が褒められているかのように威張っていて、その姿が何となくおかしかった。
「でも、本当にすごいのはこれからだから」
「そうなの?」
「うん。もう少し待てば分かる」
「じゃあなんでさっき俺を急かしたんだよ!」とは言うまい。言ってもしょうがないからね、おそらく。
階段から向かって正面にあるベンチに、二人とも腰を掛ける。俺は息を整えたくて黙っていたし、彼女もその間は何も話しかけてこなかった。
しばらくすると、「写真、好きなんだ」と名取が話し始めた。
「知ってる」
「いや、単に好きってことじゃなくて。……実は写真家になりたいって、ちょっとだけ思ってる」
「へえ」と俺は返した。写真家か。趣味ならともかく、写真で稼いでいくとなると一握りの存在に限られるのではないだろうか。
俺の思考を読んでいるかのように、名取は「分かってる」と言った。
「無謀なことは分かってる。だから、今月が締め切りの写真コンクールに応募して、それで一つも引っかからなかったらもう諦めるつもり」
「……そうか」
彼女が何のつもりでそんなことを俺に打ち明けてくれたのか、それが分からないほど俺は鈍感ではなかった。
「じゃあ当面の目標は、俺が夏の大会、名取が今月のコンクール、という訳か」
「そういうことだね」
この間の俺の告白を聞いて、彼女なりにどう俺と付き合っていくのかを考えた結果がこれなのだろう。つまり、お互いに別のことではあるけど、挑戦していこうという心持ちは変わらない、と。
「でも、そっちは俺より二ヶ月くらい早く終わっちゃうな」
「うん。だからその後は、甲斐を応援するだけ」
「……良いのか?それで」
「いいんじゃない」
自分のことなのに他人事みたいだな、と俺は思ったが口には出さなかった。
「あ、ほら。始まった」
唐突に彼女が空の方を指さしたのでつられて俺もそちらの方向を見ると、今まさに沈もうとしている夕日が、辺りに橙色と赤色を混ぜたような色の光を投げかけているところだった。
「……すげえ」
「でしょ」
「さっきも思ったけど、なんで名取が威張るんだよ」
「だって、ここを見つけたのは私だから。発見者には威張る権利がある」
「……」
憲法では認められていない新しい権利を主張する彼女に、俺は呆れて無言になった。俺の様子を見て勝ったと勘違いしたのか、心なしか得意げな様子の名取がちょっとムカつく。
視線を彼女から再び景色に戻すと、視界に見えるその光景になんとなく既視感を覚えた。そうだ、写真。今俺の見ている景色は、名取の持ち歩いているあのカメラに入っていた写真とよく似ている。
「そう言えばここの写真、あのカメラに保存されてたよな」
「よく覚えてるね」
「俺の素振りの写真を見ようとするときに、ちらっと見た記憶があって」
「実はあれも、コンクールに出そうと思ってる」
「へえ。俺は素人だからよく分からないけど、ああいう写真ならけっこういい所までいけそうな気がする。実際どうなの?」
「どうかな」
名取は夕陽に向かって手をかざした。その姿には、何か畏怖すべきものを前にしてひざまずく敬虔な宗教者のような趣があった。
「私の写真じゃあ、この生の景色の良さをまだ十分には活かせてない。そんな気がする」
「……そうか」
夕焼けの眩しさに目を細める名取を横目に見ながら、彼女の写真への思いが報われることを俺は願った。