故障
「どう、撮れた?」
「はい、これ。自分で確かめてみて」
「サンキュー」
渡されたカメラを受け取って、名取の撮った動画を見る。
俺と彼女の奇妙な関係が始まってから、早くも一週間。といっても二人の仲は特に深まることもなく、お互いに被写体と撮影者という役割に徹し続けていた。その証拠に、昼休みのこの駐車場以外では、未だに彼女と喋ったことがない。
「うーん、やっぱり開きがまだ気持ち早いかなあ」
「……全然分からない」
横から動画を覗き見ながら、名取は眉根を寄せる。彼女はなぜか、俺が口にする野球のフォームなどに関する話を理解したがる。まあ真面目な子のようだから、俺を撮ることを引き受けた以上は俺がしている行動の意味も分かっておきたいと、単に思っているだけなのだろう。
「開きってのは、ほら、ここ。上半身がさ、胸がちょっと見えてるだろ。このタイミングだと、本当はまだ見えてない方がいいんだ」
「なんで」
「なんでって。……えーと、開きが早いってことは腰が回り始めるのが早いってことだ。で、腰が回り始めるのが早いと、上半身と下半身のねじれが少ない分、うまく力がバットに伝わらない」
「スマホ見ながら答えるのは、カンニングじゃない?」
「それは許してよ。俺の語彙力じゃ、何も見ずに咄嗟に答えるのは無理」
こんな風に俺が言葉の意味の説明をすると、曖昧な部分に彼女は容赦無く突っ込んでくる。おかげで自分の頭の中が整理されるのでありがたいことではあるけど、もう少し手加減してくれないかな、と思ったりもする。
「そういえば」
俺が自分のフォームについてあれこれ考えていると、今ふと思いついたというように名取が声をあげた。
「ん?どした」
「甲斐はどうしてこんなところで素振りしてるの。普通にグラウンドでやればいいと思うのだけれど」
「……それ、聞いちゃいますか」
先週に引き続き、また痛いところを突かれたな。でも、先週と違うのは、彼女に協力してもらってから既に一週間が経っていることだ。つまり、期間は短いながらも、少なくとも昼休みの駐車場という限定された時間と場所においては、俺たちの間にはほのかな信頼関係が構築されつつあるはず。
だから、名取にはちゃんと自分の事情を説明することにした。
「大した話じゃないし、面白くもないよ。それでもいい?」
「大丈夫。私は自分から話すのは苦手だけど、人の話を聞くのは嫌いじゃないから。ただし」
「ただし?」
「出来れば早めに終えてくれると、助かる。私、次は移動教室だから」
「奇遇だな。俺もだよ」
顔を見合わせるとどちらからということもなく自然に、二人の間から笑いがこぼれた。
今年の三月、春の大会の地区予選での話だ。
神奈川県では春・秋季県大会の前に四校ほどずつに分かれて総当たりのリーグ戦を行い、上位二チームが県大会に出場できるという仕組みをとっているのだけれど、このリーグ戦がつまりは地区予選に当たる。
俺たちーー県立山田高校野球部ーーは、1勝1敗で第三戦を迎えていた。戦う相手も、ここまでの二試合で1勝1敗。その日の午前中に行われていた第一試合で残りの二校は全勝と全敗で既に決着がついていたから、この第三戦で県大会の出場校が決まることになる。試合は全勝した高校のグラウンドで行われていた。
先発でマウンドに上がったのは、当時チームのエースナンバーだった俺。勝たないといけない試合でエースを使わないチームはあまりないだろうから、これは別に変なことじゃない。
ただ、その日の俺は右腕、つまりは利き腕の肘に違和感を覚えていた。実は、違和感自体はその日が初めてではない。それまでにも何度かあったけど、変に監督を心配させるのも良くないと思って黙っていた。念のために言っておくと、監督は俺の腕にかなり気を使ってくれていたし、酷使をされたことなど一度もない。心配性過ぎるところが玉に瑕で、ちょっとした違和感をおおごとにされるのも恥ずかしいと思ったから、敢えて言わなかったんだ。
結果的に言うと、これが仇となった。
試合自体は、初回から終盤まで終始こちらが優勢だった。点差こそそれほどつかなかったものの、まず負けるはずがない、そういう試合展開だった。
事件は9回表に起こった。4対1で山田高校ーー通称ヤマ高ーーがリードしていて、この回を抑えれば勝利という場面。1アウトランナー無しの状況で、振りかぶってボールを投げようとしたそのとき、右肘に電流のような痛みが走った。
俺の手から投じられたボールは打席に立っている右打者の背中側に大きく外れ、ホームベース後方のバックネットにガシャンと大きな音を立てて当たる。
異変にすぐさま気付いた監督は、タイムを掛けると伝令をこちらに送ってきた。来たのは控え選手の元山だ。部員は皆モトと呼んでいる。
「おいおい、大丈夫かよ」
「平気平気。ちょっと変な感じがしただけ」
「そんな感じじゃなかったけどなあ」
俺たち二人が話しているところに、内野が全員集合する。
「大袈裟だって。大したことないから、ほんと」
「大袈裟かどうかは正人が決めることじゃない。監督は交代だって言ってる」
「じゃあ、なんでわざわざモトを伝令に寄越したんだよ。交代ならさっさと俺を下ろせばいいんじゃないか?」
他の内野手に指示して、マウンドの周りに円を作らせてからモトが小声で言う。
「バカ、時間稼ぎだよ。誰も肩作ってなかったから、今神山が慌ててブルペンで投げてるんだ。このタイム自体に意味はない」
神山というのは、ヤマ高の控え投手だ。球速はそこそこだけどコントロールが良くて、肩を作るーー実戦投球前にブルペンで投げてウォーミングアップを済ませることを、こう言うーーのがやたら早い。
「つまり、俺たちは今何をすれば良いんだ」
「夕飯の話でもすれば良いんじゃないか」
チーム内随一ののんびり屋であるファーストの桜井がそんなことを言って、マウンド周辺の気温を下げた。
「夕飯はともかく、審判に言われない程度に話そ……って、もう大丈夫そうだな」
モトがベンチに目を向けたのでつられて皆そっちの方を見ると、監督が頭の上で両腕を目一杯使って、大きな丸を作っていた。
「さすが神山、カップ麺より早いな。じゃあ、俺は戻るぜ」
最後にチラリと俺の右腕に目をやってから、モトはベンチへ戻って行った。監督が主審の元へ投手交代を告げに行くのが見え、諦めて俺もベンチに下がる。この時点ではまだ、「大したことはないだろう」と俺は事態を甘く見ていた。
試合には4対1で勝ち、県大会への切符を手に入れた。試合後監督の車に乗せられて、高校の近くにある村山整形外科という病院に俺は来ていた。監督の運転は、お世辞にも安全とは言えなかった。覆面パトカーでも居たら間違いなく違反切符を切られていたことだろう。
右肘をアイシングしたままの状態で、俺は診察室に入った。手前に背もたれの無い椅子が一つと、奥にはキャスター付きの椅子が一つ。奥側の椅子に、眼鏡に白衣姿のいかにも医師、という風貌の男が座っている。胸についた名札には村山徹という名前が書かれていた。
「甲斐くん、だね。こんにちは。まずはそちらに掛けてください」
こんにちは、と挨拶を返して、勧められた通り手前側の椅子に座る。村山先生とやらの声は、快活な人間の響きだった。
「うーん、とりあえずレントゲンを撮ろうか。奥の部屋へどうぞ」
俺の右腕を少しの間ためつすがめつしてから、先生はそう言った。俺も言われるがままに、診察室の入り口とは反対側にある扉へ向かう。
看護婦さんらしき女性の指示に従ってレントゲン写真を撮り終え、診察室に戻る。するとまず目についたのは、パソコンのディスプレイに映し出された俺の右肘を透過した写真を前に、難しい顔をしている先生の姿だった。
「ああ、失礼。じゃあまたこちらに座ってもらって」
俺が戻ってきたのに気づくと、すぐさま笑顔になって椅子を勧めてくる。
「前から痛みなんかはあった?」
「はあ、時々ですけど。大したことないのかなって思って、監督には黙ってました」
「そうか。君は高校三年生だったよね」
「はい」
「野球部のエース?」
「一応そういうことになってます」
「夏の大会が最後になるというわけか」
「そうですね」
俺の返事をいちいちしっかり頷いて聴いていた先生は、最後の質問を終えると一瞬、ほんの一瞬だけ苦い顔になってディスプレイの方をチラリと見た。その後すぐに真顔に戻り、こちらの方に向き直る。その目は俺をまっすぐに見つめていた。
「この写真を見る限りでは……、君が夏の大会に投げることはできないだろう」
夏の大会で投げれないという宣告を受けて頭が真っ白になった俺は、その後の傷病名だのなんだのという先生の細々とした説明が、全く耳に入らなかった。待合室に居た監督に、
「夏は投げられないそうです」
とだけ淡々と告げると、監督は
「そうか。……気付いてやれなくてすまなかったな」
と俺に向かって頭を下げてきた。でも、監督のその優しさが今の俺には痛みにしかならなかった。何よりも悪いのは自分自身であることを、俺は知っている。
「代打もあるって監督には言われたからバットは毎日振ってる。ただほら、今は故障のことがあって、気を遣われるだろ。部活でも何でも、野球部のやつには。だから、あんまり顔を合わせたくないというか……ね。まあ一人でいたい時は、誰にでもあるわけですよ」
自分語りが恥ずかしく感じて、最後は敬語口調になってしまった。こうして自分の恥部を曝け出すということを俺はあまりやったことがないけど、それは恥ずかしくもあり、どこか快感を伴ってもいた。なんだかんだ言って俺は、誰かに自分の境遇を話すことで認めてもらいたかったのかもしれない。お前は良くやっている、と。
「そっか。もしかして私、邪魔だったかな」
「それはない」
話し終えるのをじっと待った後でポツリとそう呟いた名取に対して、俺はすぐさま強い口調で否定した。名取は驚いたのか、アーモンド型の瞳を大きく見開いている。というか、俺も自分で自分の語気にびっくりした。
「……言ってみれば、名取は野球部に関係のない第三者だろ。だから気を使うとかはないし、別に居ても問題ない」
俺の説明は、我ながらどこか言い訳じみていた。名取はそんな俺をみてわずかに微笑んだ、ように見える。俺たちの間には少しの間沈黙が舞い降りたが、それは決して気まずいものではなく、むしろ充足感を感じさせるものだった。
沈黙の後、名取は何かを言おうとするかのように口をちょっと開けては、閉じるという行為を何度か繰り返した。何か言いたいことがあるのだろうと、俺はじっと彼女を待つ。
「夕方、空いてる日ある?」
名取の口から飛び出してきたのは、そんな言葉だった。
「夕方か。具体的には、何時ごろ?」
「6時から7時の間、だと思う」
何故かスマホで天気予報のアプリを見ながら、彼女はそう答える。
「平日は無理だな、部活あるから。土曜ならいけるよ」
今週の土曜日は、整形外科の予約があるので部活を早退することになっている。病院に行った後はどうせ暇になるし、一時間ほど名取に付き合ったところで問題ないだろう。
「じゃあ土曜で。待ち合わせは、駅でいいかな」
その後はとんとん拍子で、5時45分に駅前に集合することに決まった。待ち合わせのためにと、連絡先を交換する。そこで初めて、俺は今女子と校外で会う予定を立てているんだということに気づいたけど、できるだけ顔には出さないようにした。名取はおそらく、そういうことは全く考えてないのだろう。少なくとも俺の目には、そう見えた。