エピローグ とある医師の独白③
病院の外に出ると、夏と言えど辺りはもう闇に包まれつつあった。暗い夜の中でエメラルド色の光を鈍く放つトヨタのアクア車を私は見つけると、運転席に乗り込み鞄を助手席に置いて、エンジンを掛ける。
この後スーパーに寄り買い物をして帰る日もあるのだが、今日はその限りでない。そのため、行きと同じ道を走らせて私は帰宅の途についた。
私が住んでいるのはとあるマンションの303号室。駅からもそう遠くないうえ、3LDKと中々広いので気に入っている。それでも、子供が出来たりしたら手狭に感じるようになるのだろうか。個人的には2人欲しいと思っているのだが。男の子と女の子が一人ずつ。
マンションに入り、目的の扉の前に着いた。表札には「甲斐」という文字が書かれている。実のところ、仕事場で私はこの甲斐という名字を使っていなかった。病院での私の苗字は村山。働き始めてからはずっとこの苗字で通していたので、無理に変えない方がいいだろうと判断してのことだ。
扉を開けると、食欲をそそるようなスパイシーな匂いが微かに漂ってくる。今日の夕飯は、彼の得意料理であるカレーらしい。
「ただいま」
声をかけながら居間に入ると、台所でガスコンロの正面に立ち、料理をしている背中が「おかえり」と返事をしてくれた。
「今日はカレー?」
「そう。だから明日の昼は、カレーの残り」
「そっか」
こういう何気ない会話が、実に愛おしい。私たちのここに至るまでの過程を考えると、なおさらそう思える。
10年ほど前の私は、随分と波乱万丈な人生を送っていた。母が亡くなり、遺産を相続したとはいえ今後の生活を考えると不安な金額。このまま医学部に残って良いのかすら考えたこともあった。
そんな時に降って湧いたのが、母の兄が婿入りした村山家との養子縁組。この叔父夫婦に現在子供がいないことから、医学部に通う私に跡を継がせれば良いのではないかという案が出てきたのだ。
私は最初、提案を受け入れるのを躊躇った。それは案そのものが受け入れられないからというよりは、こんなに上手い話があって良いのかという不安から来るものだった。私が天涯孤独の身なのを良いことに、うさんくさい話を持ちかけてくる大人をは当時たくさんいたから。
でも、叔父さんーー今は父だが、私の中ではやっぱり叔父さんだーーはそんな私に真摯に向き合ってくれた。
「僕としては、大事な姪っ子が不幸になる方が嫌だからね。要するにこれは、君のためじゃなくて僕のためなんだ」
叔父さんの伝え方は随分と不器用だったけど、だからこそ私の胸に響いた。ああ、この人は確かに私と血が繋がっているんだなと、心の底からそう思えた。
そしてあの日。私が行かなかった、成人式の翌日。私は正人と、再会したのだった。
夕食が終わり、食器を片付けた後。私と正人は、ソファに並んで高校野球中継の録画を観ていた。今年の山田高校は3回戦で保土ヶ谷球場での試合となったので、そのテレビ中継があったのだ。
二人とも、試合の結果は既に知っている。ヤマ高の負け、それもコールドでだ。
試合展開に飽きていた私は、横目で正人を見る。こういうときの彼は、呆れるほど真剣な眼差しだ。結果がもう分かっているのに、こちらの投手が打たれるといちいちああ、とかうわ、と声を漏らし、ヤマ高の選手が打つとよっしゃ、と声を上げる。未だに野球のルールがよく分かっていない私からすると、試合そのものより正人の反応の方が断然面白い。
私の視線に気づいたのか、正人がこちらにちらりと目をやった。でも、特に何も言わずにすぐさまテレビに目を戻す。すると、ちょうどそのタイミングで相手校の一塁ランナーが走りだした。それも、ピッチャーが投球モーションに入った瞬間。
「盗塁って言うんだっけ?こういうの」
「ああ。って刺した!すげえな、このキャッチャー。鳥居よりよっぽど肩強いぞ」
確認すると、正人が頷く。頷いたそばから、キャッチャーからの送球でランナーがアウトになったのを見て眼を輝かせている。
「すごいことなんだ」
「そりゃそうだよ。強豪校は化物みたいに足速いやつがいるからな。うちみたいな高校のキャッチャーが盗塁刺すなんて、ほとんど奇跡だ」
「奇跡……か」
一度は関係が切れた私と正人が、こうして一つ屋根の下に暮らしているのも奇跡。普通の公立校野球部のキャッチャーが、強豪校の俊足ランナーを刺すのも奇跡。奇跡というのは、探せば案外どこにでも転がっているのかもしれない。いや、探そうという意志がないと見つからないからこそ、奇跡なのか。
「ありがとう」
正人に聴こえないような声で、こっそり感謝してみる。思えば、私が医師、それも内科でも産婦人科でもなく、整形外科医を目指そうとするきっかけをくれたのは彼だった。肘を故障して、それでもなお夏の大会への出場を諦めない彼の意志をあの日あの場所で見たからこそ、私の新たな人生が始まったのだ。
「よく分からないけど、どういたしまして」
はっとして顔をあげる。目に映ったのは、こちらににこりと笑顔を向ける正人。
聴こえないように言ったつもりなのに、聴こえている。彼のこういうところが、心底むかつく。普段はもっと鈍感なのに。
私は高校時代より少し伸ばした髪を動かして、彼から表情が隠れるようにした。その様子を見て私に訳を話すつもりがないと分かったのか、正人は再び試合に目を移す。
それからしばらく経ってからのことだった、正人がテレビに目をやりながら「そういえば、さ」と何かを言いかけたのは。
私は無言で先を促す。こういうときは、無言が何よりも物を言う。それを私は、身をもって知っている。逆の立場を経験したことがあるから。
正人は何度か口にするのを躊躇うように、小さく息を吐いた。そうしてようやく覚悟が決まったのか、頭を掻きながら言いかけた言葉を口にする。
「今ふと思ったんだけど。皐月が医師を目指したのって、俺のことも理由入ってたりする?」
「……」
「あ、ごめんなさい。自意識過剰ですよね、思い上がりでしたよね。はい、すいませんでしたー。今の話は無し!忘れて!」
私が何も言わないうちから、正人は自分で思いついた考えを自分で否定して顔を赤らめた。まあ、いいか。彼には一生勘違いさせておこう。そのくらいの意趣返しは、許されるはずだ。
拙い文章でしたが、完結までお付き合いくださりありがとうございます。




