卒業
「甲斐、正人君」
担任の斎藤に名前を呼ばれた俺は、はいと返事をして体育館壇上の中央にまっすぐ向かった。俺のクラスではふざけた返事をするやつがまだ出てないけど、今後出ることは間違い無いだろう。その勇敢さを少しでも俺に分けて欲しい。
長めの口上は最初に呼ばれた生徒のときだけ行われ、後は以下同文の連続。俺のときももちろんそうなので、校長の話はさっさと終わってしまう。俺はリハーサルで先生に言われた通りの形で証書を受け取ると、そそくさと演壇を降りた。こういうのは苦手なんだよな、本当に。マウンドならなぜか大丈夫なんだけど。
席に戻る途中で、俺より2列後ろの席にいる敬太が手を振ってきた。俺は目立たない程度に軽く手を挙げて自分の席に座る。肘にパイプ椅子のパイプ部分が当たり、ひんやりとした心地がしてちょっと気持ち良い。
ともかくこれで、俺にとっての卒業式の山場は終わった。この学校にも色々と思い出はあるけど、不思議と涙は出ない。
卒業式が終わり体育館を出ると、3年は群れを成して1年間自分たちが使っていた教室に戻る。当然俺もその群れの一部な訳で、流れに身を任せて一歩一歩階段を上がっていった。3年の教室は校舎の一番上の階で、体育館は一番下の階だからこれが結構長い。
目的の階の一つ手前の踊り場まで来たところで、俺より上の方にいるやつらがざわめいているのに気づいた。もちろん、みんな喋りながら上っていたからこれまでもざわざわしていたのだけど、それとは質の違う騒ぎ方だ。
それに、3年の教室がある階より上、つまり屋上へ続く階段へと群れが伸びているのだ。屋上へ続く扉はいつも閉まっているから、普段は使われることのない階段なのに。
「何?どういうこと?」
俺は少し前の方にいた敬太に追いつくと、肩を叩いて尋ねた。
「それがさ、すげえんだよ!」
敬太は興奮して、目を輝かせている。
「だから、何が?」
「なんでかは分からないけど、屋上への扉が空いてんだって、今日。みんなどんどん上に行ってるぜ!」
「まじ?」
敬太の興奮が移ったのか、俺の気分も盛り上がっていく気がした。
屋上は別世界だった。学校という空間に存在するスペースという意味では教室と同じなのにも関わらず、あそことは全く異質な感じがした。より具体的に言うと、非日常感が強く感じられる場所だった。上には澄み渡る青空が、下にはヤマ高のグラウンドが見える。
心なしか地上より強い風が吹く中、記念写真を撮ったりグラウンドを眺めたりと、みんな思い思いの行動をとっている。俺も野球部の連中と写真を撮ったり、クラスメイトと屋上の縁の方に行ってみたりと大いに楽しんだ。
でも、肝心の名取の姿は見えない。話したいことがいっぱいあるのに。
しばらくして屋上に飽きてきた俺は、端っこに座ってぼーっと下を眺めていた。恐くないと言えば、嘘になる。そもそも俺は、ジェットコースターが苦手なたちなのだ。じゃあなんでこんなことをしているのかって?
こうしていると、今自分が生きていることがものすごい奇跡のように思えてくるんだ。だってここから一歩踏み出せば、俺は死ぬんだぜ。普段生きている中でも、気づかないうちにこういう「あと一歩で死ぬ」場面に出くわしていないとどうして言い切れるだろうか。そう考えると、今までの自分は実はものすごい確率の壁を超えてきたんじゃないかという心持ちになれる。
突然、誰かに肩を叩かれた。びくっとして振り向くと、そこにいたのは案の定敬太だった。
「おい、来てるぞ」
「誰が?」
俺は首を傾げた。特に誰かを待ってはいなかったはずだ。
「馬鹿。名取だよ。早よ行ったれ」
何がなんだか分からないままに、俺は敬太に引っ張られた。よくよく見ると、屋上の人数は先ほどより少し減っている。遊び飽きた連中が出ていったのだろう。
確かに名取はいた。最近会っていなかったせいか、その姿はどこか新鮮な感じがした。髪の毛も以前より伸びた気がする。
「よ、よお」
俺が片手を上げて挨拶すると、名取はただこくっと頷いた。ああ、そういえば彼女はこういう子だったなと俺は不意に思い出した。
「じゃ、後は若い者同士でごゆっくり」
自分も同い年のくせに、まるでお見合いの仲人のような口調で敬太はそそくさといなくなった。待ってくれと声をかける暇すらなかった。あのやろう。
「あんなこと言ってるけど、どうする?」
俺は頬をかきながら名取に尋ねた。名取は俺の背後を指差すと、「そこで話そう」とだけ言う。彼女は指し示した場所は、先ほどまで俺のいた場所だった。
俺と名取は、屋上の縁の方に並んで座った。名取の方から何か言い出すのではないかと俺は辛抱強く待ったが、彼女は一言も言葉を発しない。しびれを切らした俺は、自分から口火を切った。
「そう言えば、聞いたよ名取。医学部受かったんだって?」
「うん」
「すごいじゃん。俺なんか浪人決定だよ」
「……そっか」
俺は空を見上げた。実を言うと、どこにも受からなかったと言うわけではない。ただ、自分の中で納得がいかなかったから浪人することに決めた。親に迷惑をかけている自覚はある。将来働いて恩返しします、はい。
「でも、私が医学部目指したのは甲斐のおかげだよ」
俺は名取を見た。彼女の声が、ちょっとだけ震えているような気がしたからだ。でも、見た感じだといつも通りの名取だ。気のせいだったのかもしれない。
「なんで俺のおかげなの?」
「それは」
何か言いかけたところで、名取は口を閉じた。しばらく口をモゴモゴとさせてから、諦めたように笑う。そのはかなげな笑みを、俺は今でも忘れることができない。
「……なんででしょう」
教室に戻って席に座ると、敬太が俺の方に寄ってきた。なぜか開口一番「おめでとう」と言う。
「は?何が?」
「え?何がって、正人と名取だよ。付き合うことになったんじゃねえの?」
「なってねえよ。ただちょっと、話しただけ」
敬太は俺の机に突っ伏して、深いため息をついた。「それじゃ、俺が気イきかせた意味ないじゃんか」とぶつぶつ言う。
「俺らはお前が思うような関係じゃないよ。それに、名取は多分俺のことなんとも思ってないだろうし」
俺が言うと、敬太はがばっと顔を上げて真剣な目でこちらを見た。
「お前それ、本気で言ってる?」
俺は何も言えなかった。敬太に自分の弱さを見透かされている気がした。
敬太の言う通り、俺は名取との関係を曖昧なままにすべきではなかったのだろう。自分の思いを伝えるなら、あの場しかなかった。でも俺は言えなかった。
なぜかは自分でも分かっている。関係を変えるのが恐かったとか、単純に思いを伝えるのにびびったとかも理由の一つだ。でも一番の理由は、自分の立場に引け目を感じてしまったことなのだろう。
向こうは写真家への夢を諦めた後、なんでかは分からないけど医学部に進路を変更しどんどん前に進んでいる。それなのに俺は、去年の夏あの試合に負けた日から一歩も前に進めていない。後退しているような気すらする。そんな状態で付き合ったとして、上手くいくのだろうか。俺にはどうしてもそう思えなかった。
「ま、正人がいいならそれでいいんだけどな。好き同士で絶対付き合わなきゃいけないなんて法は無いし」
言い残して自分の席に戻る敬太の背中を眺めながら、なんとも言い難い不安がむくむくと頭をもたげるのを俺は感じていた。




