終わった二人
夏休みに入って一週間ほど経った頃。俺は高校の教室で、受験勉強に勤しんでいた。とはいえ、この間まで高校野球に熱中していた身。すぐさま切り替えられるのかというと、そういうわけでもない。
「何聞いてんの?正人」
俺の耳に入っているブルートゥースイヤフォンの片方を引っこ抜きながら、敬太が言った。
「やめろ。人のイヤフォンを勝手に抜くな」
「なんだ、これ高校野球の中継じゃん。どこ対どこ?」
「人の話を聞けよ」
俺は敬太の耳からイヤフォンを取り返すと、ポケットから取り出したティッシュで軽くそれを拭いた。
「俺の耳、綺麗なんだけどなあ」
「そういう問題じゃないっての。聴きたいならせめて一言言ってくれよ」
「了解!」
言いながら敬礼のポーズをとる亮太。こいつは本当に分かっているのだろうか。
「それで、どこ対どこよ」
「今はいいだろ。他に勉強してる人もいるし」
俺が言うと、敬太は辺りを見回した。俺たち二人以外にも、ここには自習しに来ている生徒がそれなりにいる。名取もいる。もちろん完璧に静かってわけじゃないが、みんなそれなりに節度を守ってるから話していると目立ってしまう。
「悪い。じゃ、俺も勉強に戻るか」
「そうしなさい」
「はーい」
敬太が席に戻るのを目で追いながら、俺はため息をついた。
俺が今聞いていたのは高校野球・神奈川県大会の準々決勝、東院学園対横浜実業の試合。そう、俺たちは負けたのだ。あの試合に。
9回表、2アウト1・3塁のピンチで4番の新海に長打を打たれ、その裏に逆転できず負け。最後の最後で勝ちを意識して浮き足立ったと言われればその通りなのかもしれないが、同時にあれが俺たちの正しい実力だったのだろうとも思う。もちろん、悔しさは未だに消えないが。
だから今もこうして、中継を聞いている。別に漫画とかでよくある「俺たちに勝った以上、中途半端なところで負けるのは許さねえからな」という気持ちからでは断じてないが、側からはそういう風に見えるだろうな。
おやつの時間の1時間ほど後、俺は教室を出て校門の前に佇んでいた。門のそばには大きな桜の木が青々とした葉を生い茂らせていて、俺はその下で涼を取っている。そうでもしないと、暑くてかなわない。
しばらくすると、昇降口に名取が見えた。彼女は上履きからローファーに履き替えると、昇降口から伸びる階段を降りてくる。
俺が右手を上げると、名取も手を上げて返してきた。
「んじゃ、行きますか」
「うん」
俺は上げた手をポケットに突っ込むと、校門から右手の方へ歩き出した。名取は何も言わずに、ついて来る。
「そういえば」
「うん?」
歩いている途中、珍しく名取の方から話しかけてきた。
「駄目だった、全部」
「そうか……」
名取が言っているのは、写真コンクールの話だ。今回応募したコンクールで選考に全く引っ掛からなかったら、夢を諦めると以前彼女は言っていた。つまりは、そういうことなのだろう。
「残念だったな」
色々考えてみたが、かける言葉が見つからなかった俺は月並みなことしか言えなかった。名取は今、どんな顔をしているのだろう。なんとなくだけど、見れない。
「大丈夫。他に目標ができたから」
「まじで?」
俺は思わず、足を止めて彼女の顔をまじまじと見た。
「甲斐には言えない」
名取の顔は、素晴らしいいたずらを思いついた子供のように輝いていた。
病院に着くと、いつも通り待合室で少し待ってから診察室に入った。名取とはそこで一旦お別れ。
「うん、もうほとんど完治してるね」
ついさっき撮ったレントゲン写真がでかでかと映っているパソコンのデスクトップを見つめながら、村山先生が言った。俺は「はあ」と答えた。正直今さら治られても、あまり喜べない。いや、もちろん、治ったこと自体は嬉しいのだが。
「ふふ、今さら治ってもって顔してるね。君」
デスクトップからこちらに目を向けた先生が、俺の顔を見て微笑む。
「……先生はエスパーですか」
「そんなことないさ。今の甲斐君の顔を見ていれば、誰だってそう思うよ」
「俺ってそんなに顔に出やすいですかね」
俺はぽりぽりと頬をかいた。
「出やすいね。君の彼女の方がだいぶ分かりにくい」
「だから彼女じゃないですって」
俺が否定すると、先生は怪訝な顔をした。
「おや?君たちまだ付き合ってなかったのか?でもだとすると……」
何やらぶつぶつと呟く先生。なんの話だか、こちらはさっぱり分からない。
「もしかして君、まだ皐月ちゃんから聞いてないのか?」
「思い当たることがないので、聞いてないんでしょうね」
「そうか。じゃあ今日の診察はここまでだ。お大事に」
「ちょっと待ってくださいよ!そこで止められても気になるじゃないですか」
俺が文句を言うと、先生は眼鏡のブリッジを人差し指でつっと押し上げた。漫画の眼鏡キャラなんかがよくやるあれだ。
「すまないね、甲斐君。彼女が言わないと判断したことを、僕の口から先に言うことはできない。大丈夫、どうせそのうち本人から聞くことになる」
「……はあ」
まあ、先生はこういう人だ。一度言わないと決めたらもう梃子でも動かないだろう。だからこそ信頼できるのだけれど。
俺は様々な疑問を抱えながら診察室を後にした。
待合室に戻ると、名取が別れる前と同じ顔つきで待っていた。つまり、彼女の標準装備である無の表情だ。
「悪い、待たせたな」
そう言いながら俺は、座っている名取の顔をじろじろと眺めた。彼女は表情を変えずに「どうしたの?」と訪ねてくる。
「いや、なんでもない。出ようか」
「うん」
名取はスカートの裾を抑えながら立ち上がった。
二人で病院を出ると、すぐに名取がこちらを向いた。
「そういえば、治ってた?」
「そういえばって……。ああ、治ってたよ」
「そっか、良かった」
にっこりと笑う名取。俺はその笑みに吸い込まれそうな気がした。
「ちょっとそこで待ってて」
名取はそう言うと、俺を病院の入り口に立たせたまま少し先の方へ小走りで向かった。鞄を下ろして何やらごそごそやったかと思うと、カメラを取り出してその場でくるっとこちらに振り返る。
「はい。笑って」
急に言われた俺は、なんとかぎこちない笑みを浮かべた。そんな俺を何度か撮影した後、名取は納得がいかないというように首を捻った。
「もうちょっと良い顔してよ。一応怪我が治った記念なんだから」
「そんなこと言われてもなあ……。というか、なんで俺だけ?どうせだし名取も映ろうぜ」
「え?」
名取は目を丸くした。彼女が驚くところを見たのは初めてだ。なんだろう、鼻を明かしてやったぜという謎の達成感がある。
「え、じゃないよ。ほら」
俺は名取に近づき、彼女の腕を取った。そして、さっきまで自分のいたところに彼女を連れて行く。名取も特に抵抗しなかった。
「でも、このカメラ自撮りに向いてないよ。重いから片手だとブレちゃうし」
「じゃ、スマホで」
俺はズボンのポケットからスマホを取り出した。ホームボタンを押して画面ロックを解除すると、カメラアプリを起動して名取に渡す。
「私で良いの?」
「だって、俺がとるよりかは絶対上手いでしょ」
「……分かった」
名取はこくっと頷くと、スマホを体からできるだけ引き離した。二人とも画面に入るように、こちらに身を寄せてくる。彼女の髪の先が、俺の肩にさらりと触れた。
カシャ、という音を何度かさせた後で、名取はスマホを俺に返してきた。
「どう?」
彼女が顔を寄せてくる中、俺は今彼女の撮った写真を確認する。病院の入り口を背にして二人が写ったものが、確かにそこにはあった。というか……。
「ははっ」
写真の中の名取を見た俺は、思わず笑いをこぼしてしまった。現実の彼女は、横で眉根を寄せている。
「何かおかしい?」
「だって、真顔すぎるでしょ。これ」
「仕方ないでしょ。緊張してたから」
「まじ?」
俺はぎょっとして名取の顔を見た。彼女はいつも通りの表情でこちらを見返してくる。まったくもって分かりづらい顔だな、本当に。村山先生の言ってた通りだ。
でも、その分かりづらい表情の中に、ちょっとだけ彼女の気持ちを垣間見た気が俺はした。俺の勘違いじゃなければ、そのとき彼女は楽しそうにしていたのだった。




