盗撮少女
高校三年生になってから一月ほど経った頃。
進級する度にクラス替えが行われるから、三年生が「新しいクラス」を経験するのは高校生活で三回目となるはずだけど、それでも学期始めはクラス全体に、張り詰めた弦のような緊張感が漲っていた。
しかし、それからひと月も経つと皆新しいクラスメイト達に慣れてくる。
すると張り詰めていた空気は、ぱんぱんに膨らんだ風船に針を刺したときのように、みるみるうちに萎んだ。
そして今度は、部活動の最後の大会や体育祭・文化祭などの、高校生活が終われば今後二度とお目にかかれないような行事を、最後だから悔いのないように頑張ろうといういかにも最終学年らしい、桜の散り際ーーあの、悲壮感が漂いながらも一瞬の美しさに身を任せる花たちーーに似た雰囲気ができあがる。
そんな中で俺はその日もいつもと変わらず、他のクラスメイトと共に昼食を摂っていた。
顔触れはバスケ部の柴田、新聞部の酒井、そして野球部の津野敬太と俺だ。
といっても俺自身は、敬太以外の二人とは知り合ってからまだそれほど経っていない。
この二人とは、今まで同じクラスになったことが無かったからだ。
敬太が二人と前に同じクラスになったことがあるのとたまたま席が近いために、三年生になってからはこの四人で昼食を取ることが多い。
「ご馳走様」
「毎度のことだけど、早えよ」
空の弁当箱に向かって手を合わせると、柴田がそう突っ込んできた。
四人の中で、一番食べ終わるのが早いのは俺だ。
自慢じゃないが、二限目と三限目の授業の間の休み時間から早弁を始めていたからな。
さすがに授業中に食べる勇気はないが。
ちなみに1・2限の間には、弁当とは別でおにぎりを食べている。
毎日朝練と部活があるから、これくらいは食べないと体重を維持できないのだ。
野球でパワーを発揮するためには、ある程度体重も必要だからな。
「悪いけど、ちょっとやることあるから行ってくる」
「昼練?」
「そんなとこ」
柴田にそう答える俺に、運動部は大変だなあと酒井が言ってきた。
自分の大変さを自慢していると思われているような気がして恥ずかしくなった俺は、全然そんなことないよと言って席を立つ。
「てか、津野も野球部だろ?二人で行けばいいのに」
「違うんだよ。こいつ最近、俺らに隠れてこそこそ別の場所で練習してるから」
「まさか甲斐、お前……トイレで抜いてるんじゃないだろうな」
「ばっか、食事中だぞ。女子に聞かれたらどうする」
下衆の勘繰りをする酒井に、敬太がすぐさま注意をする。俺たち四人は、なんとなく皆とっさに辺りを見回した。
幸いなことに、昼休みの喧騒が酒井の声を掻き消してくれたようだ。
四人の会話にたまたま生じた今の間隙こそ、この場を抜けるちょうど良いタイミングだと感じた俺は、ジャージの入った袋を持つと、じゃあ行ってくると言って教室を飛び出した。
昇降口から校舎を出て左手に曲がると、グラウンドと部室棟が見える。
部室棟の奥の方へずんずん進んでいくと、そこが野球部の部室だ。部室の裏手に回ると、窓を開けて中に入る。
表の扉には鍵がかかっているから、朝練や昼休みの時にはこうして窓から中に入るのが慣例になっている。
防犯のことを考えると最悪の仕様だけど、どうせこの部室に目ぼしいものなど何もないのだ。
部室内にはまだ誰もいない。
俺は急いでジャージに着替えると、自分のバットケースをロッカーから取り出して扉の鍵を開け、今度は表から外に出た。
校舎の方に戻ると、今度は昇降口から向かって右手のほうに進む。
突き当たりで昇降口の正面にある正門とは反対方向、つまり校舎側の方へ行くとそこには駐車場があり、車が入るための門が存在する。ここが、この間俺の見つけた素振りの穴場スポットだった。
この駐車場にはそれほど車が止まっていないのでバットを振るためのスペースは十分にあるし、昼時には校舎が日影を作ってくれるので涼も取れる。
しかもこの場所のことを他のやつは知らないから、誰にも邪魔されずに一人で集中してバットを振ることができるという訳だ。
バットケースからバットを抜くと、早速素振りを始める。
昼下がりの駐車場は静けさで満ちていて、バットが空気を切り裂くぶん、という音以外には何も聴こえない。
最初はフォームを意識しながら丁寧に振り、次に投手が実際にボールを投げてくるのを想定してコースごとに振る。こうしていると、次第に自分の世界に没入していける。
そのまましばらくバットを黙々と振っていると、どれほど時間が経った頃だろうか、急にパシャッという音が聴こえた。
雑音で我に返った俺が辺りを見渡すと、俺がバットを振っている背中側のちょっと離れたところで、一人の女子生徒が俺に向かってカメラを構えていた。それも使い捨ての可愛いやつじゃなくて、けっこうごつめの本格的なやつ。
被写体が素振りをやめたことに気づいた彼女がレンズから目を離したところで、俺とその女子の目が合う。
彼女は確か、同じクラスの名取皐月という名前の子だったはずだ。
今年初めて同じクラスになったうえ、今まで喋ったことは一度もない。
そんな彼女が何故、俺の素振りしているところをカメラに収めていたのだろうか。
まさか盗撮? いやいや、とても俺の写真なんかに需要があるとは思えない。
それとも俺には考えも及ばないような、写真の斬新な使いみちがあるのだろうか。
名取の表情からは何も読み取れなかった。
切れ長の大きな目とシュッとした鼻筋は、改めて見るとわりと整っているなという感想を俺に抱かせただけだ。
輪郭をふんわりと包み込むようなショートヘアーがよく似合っている。
そうしてしばらく、俺と彼女はその場で顔を見合わせていた。
お互いにこの状況にどう対処すれば良いか分からなくて、戸惑っている感じ。
いや、俺はともかくとして、写真を撮っていた名取の方が現状に戸惑っているのは、冷静に考えると奇妙な気がするけど。
先に動き出したのは彼女の方だった。
くるりと俺の背を向けると、あっと思った俺が止める間も無くその場から走り去ってしまった。
すぐに走り出せば追いつけたかも知れないけど、そもそも状況に理解が追いついていなかった俺は、何もせずに彼女が走り去るのをぼけっと眺めていた。
昼休みの終わりを告げる予鈴はまだ鳴っていないし、体感的にも次の授業までにはまだ時間があるはずだ。
でも、気持ち的にはもう素振りどころでは無くなってしまった。
バットとバットケースを右手に併せ持ったまま、しばらく俺はその場で立ち竦んでいた。