二回戦④
バットを取って敬太の座るネクストバッターズサークルに向かおうとすると、背後から誰かに肩を叩かれた。振り返ると、神山が何か言いたそうな顔でこちらを見ていた。
黙って待ったが、神山は何も言わない。
「なんだよ?」
痺れを切らした俺が尋ねると、神山は俺の方をポンと叩いた。
「頼んだ。それと、同点は勘弁してくれ。長い回は投げたくないから」
「贅沢な注文だなあ。第一、今ランナーが二人だぜ。逆転なんてそれこそホームランを打たない限り……」
「いや、桜井がきっと塁に出てくれる。そしたら満塁で甲斐だから、ホームランじゃなくて長打でも逆転だ」
俺の言葉を遮るようにして、神山が言う。その目があまりに真っ直ぐなので、俺は思わず神山から目を逸らした。
「……そういうの、捕らぬ狸のなんとかって言うんじゃなかったっけ?」
「皮算用な」
それだよ、それ。現実はそんなに上手くいかないぞ、知らんけど。
最後にもう一度肩をポンと叩かれてネクストに送り出された俺は、ネクストに座る敬太のもとに向かった。
「あ、俺交代?」
俺が来たのを見てすぐに状況を悟る敬太。なんと答えれば良いのか分からなかった俺は、ただ頷くのに留めておいた。
「そっかそっか」
やつは妙にさっぱりした顔で頷くと、立ち上がってその場所を俺に譲る。俺がそこに座ろうとしたその時、耳元に口を寄せると、
「期待してないからな。三回ぶん回してこい」
そう言ってニヤリと笑った。俺も釣られて笑うと、
「馬鹿言え。三回振る前に仕留めてくるよ」
と返しておいた。
「言ったな、こいつ」と捨て台詞を残してベンチに引っ込む敬太の背中を見つめながら、俺は地面に逆さにたてたバットのグリップを強く握りしめた。
5番の桜井が打った打球はボテボテのショートゴロだったが、ボテボテ過ぎたためかこれをショートがぽろっと落とし出塁。結局神山の言う通り、2アウト満塁、長打が出れば逆転という場面で俺に打席が回ってくることとなった。
右打席に入る前にサインの確認のためベンチを見ると、「打つだけだ!」と言わんばかりに強く右腕を前後に振るジェスチャーをする監督が見えた。どうやらこの打席、もうサインを見る必要がなさそうだ。
審判に挨拶をしてから打席の土を足で軽く均し、バットの先でホームベースの左右の角を軽く叩く。考えるまでもなく身体に染み付いた、打席でのいつものルーティーン。そのままバットを振り上げて構えの位置に持っていくところで、ようやくマウンドをまともに見る。そこに立つ東院のエース・青島の姿は、気のせいかあまり大きく見えない。いや、元々上背のある選手じゃないから当たり前っちゃ当たり前なんだが、上背よりさらに、ということだ。
その青島が、セットポジションから投じた第一球。インコースのストレートを、俺は見事に空振りした。でも、悪くない。当てにいかず強く振れているから、これで間違いないはずなんだ。
ファーストへの牽制を挟んで、続く第二球。これもストレート。タイミングはさっきよりだいぶ合っていたけど、少し振り遅れてファーストの右に打球が飛ぶ。これで2ストライク。
俺は1度打席を外すと、ふっと息を吐いてバットのグリップを握りしめた。本当は今の球を、捉えたかった。追い込んだ以上、ここからはそう簡単にストライクゾーンへ放ってこないだろうから。でも、こうなってしまった以上は仕方がない。青島はカーブやフォーク、スライダーも持っているから、それを頭に入れつつストレートにも対応する。改めて考えると、鬼畜のような難易度だ。
そのとき、後ろで聞こえるブラスバンドの演奏に混じって「頑張れ」という声が聞こえた気がした。釣られて振り返ると、たまたま目をやった位置に名取がいる。
彼女と、目があった。真っ直ぐな目で、こちらを見つめ返してくる名取。その目を見ていたら、さっきまで考えていたことが全て頭の中から吹っ飛んでしまった。周りの音すら聞こえない。どのくらいの時間だったかは覚えていない。10秒、いや、もしかしたら一瞬だったかもしれない。でも、その時間が俺には嘘偽りなく永遠に感じられた。世界に俺と名取しかいないんじゃないか、本気でそう思った。
「君、どうした」
主審に声を掛けられて、俺は我に返った。一気に世界に色彩が戻り、「夏祭り」の演奏が耳に入ってくる。
打席に入って、もう一度土を均した。構えて投手を見る。グラウンドが、小さく見えた。
2ストライク0ボールからの、三球目。青島の手から投じられたボールは、いったんストライクゾーンの高めに抜けていくような動きを見せた後、ググっと曲がりながら落ちてくる軌道を描いた。あ、カーブだ。と思った頃には、もう自分の意志では止められないほどバットが動いている。
バットから逃げていくように落ちるその軌道になんとかかち合うように、俺はバットの軌道を修正していく。はたから見たらかなり不格好だろうけど、それはもう仕方がない。
なんとかバットの先にボールが当たり、ボテボテの打球が打席付近を転がっていく。ファールだ。
普段なら、今の球は空振りしていたはず。当たるということは、俺の調子はやっぱり悪くない。
その後何球かストレートや変化球が来たが、いずれもファールかボールだった。カウントは2ストライク3ボール。
今苦しいのは、俺じゃなくて青島の方だ。
投球に備え、再びトップを作る。バットの位置が、今日の打席で一番しっくりくる感じがする。
マウンド上の青島がニヤッと笑った。随分と余裕があるなとは思ったが、不思議と悪い気はしなかった。向こうも向こうなりに、この勝負を楽しんでくれているのかもしれない。
セットポジションから青島が投じたボールは、最初普通のストレートのような軌道に見えた。コースもそれほど厳しくない。俺は「もらった!」とばかりにバットを振り出し、そのタイミングは感覚的にはばっちりだった。来た球が本当にストレートであれば。
その球は、思ったよりこちらに来なかったのだ。ストレートでこの減速具合は明らかにおかしい。でも、バットはもう止まらない。
そのときだった。自分の下半身が、思いの外粘れていると感じたのは。なんだかんだで今までの練習が功を奏したのかもしれないし、もしかすると偶々かもしれないが、とにかく俺はうまい具合にバットが出るのを遅らせることができた。
結果体勢を崩しながらも、ボールをバットの芯で捉えた。ほとんど当たったという感触がないくらいに完璧だった。打球は左中間のほうに飛んでいったはずだが、正直頭が真っ白であまり覚えていない。もしかすると右中間だったかもしれない。とにかく気づいたら俺は2塁ベース上に立っていて、電光掲示板の8回裏の得点欄に「3」の数字が踊っていた。
ヤマ高側の応援席の盛り上がり方は凄まじかった。もう勝ったかのようなお祭り騒ぎ。ベンチの部員も、皆こちらに向けて拳を振り上げている。俺はその光景を、他人事のように眺めていた。
回が終わってベンチに戻ると、部員が総出で俺を出迎えてくれた。ケツを叩かれたり頭を叩かれたりと散々だったが、とにかくみんな喜んでくれているのが伝わってきて嬉しかった。敬太とは拳を突き合わせた。
「やってくれたな、お前。最後のあれ、チェンジアップだろ!」
敬太の興奮が抑えられないという口調に、俺は打ったボールを思い返した。言われてみれば、あれはカーブでもスライダーでも、ましてやフォークでもなかった。つまり、データにはなかった球だ。
俺は自分の掌を見つめた。あれはもしかしたら、名取が俺に打たせてくれたのかもしれない。なぜかは分からないけど、そうとしか思えなかった。
そうして迎えた9回表。この回を凌げばこちらの勝ちだが、点差はわずか1点。相手の打順は9番からだから確実に上位打線に回るうえ、神山はすでに疲労困憊。逆転どころか追いつかれても絶望的だ。
それでも、守備につくみんなの表情は明るかった。絶対に勝ってやるという闘志に満ち溢れているように見えた。
みんなの闘志が、神山にも乗り移っているように俺は感じた。実際神山は相手の先頭打者を2球で追い込み、粘られても厳しいコースに投げ続けて9番を凡退させる。
1アウトで迎える打者は1番。今日の試合では3回に2ベースヒットを1本放ったのみだが、恐い打者であることに変わりはない。その1番に、神山は初球ストレートを投じた。これは外に外れてボール。
2球目は、インコースにストレート。これをバッターが振ってきて打球はサード側のスタンドへ。1ストライク1ボール。
3球目と4球目がボール、5球目が外角低めにずばっとストライクで2ストライク3ボールになった。神山も疲れているはずなのに、まだ球威が落ちていない。最後の力を振り絞るかのように、1球1球真剣に投げているのがベンチにも伝わってくる。
6球目、神山が投じたボールは変化球だった。ベンチからだと分かりづらいが、おそらくスライダー。どうもこれがわずかにストライクゾーンから外れたようで、フォアボールとなってしまった。
「悪くない、悪くない!切り替えてこう!」
こういうときの投手の辛さを知っている俺は、ベンチから神山に声をかけた。切り替えてこうと言われたところで切り替えられるものでもないけど、何も言わないよりはましだ。マウンドは、孤独な場所だから。
みんなもこまめに神山に声をかけていた。すごく雰囲気が良い。こういうのを一体感というのだろうか。今この場に参加していることが、すごく幸せだ。欲を言えば、自分がマウンドに立っていたかったが。
次の2番打者は3球で凡退し、2アウトランナー1塁でクリーンナップに回ってきた。3番の吉岡はシュアな打撃が持ち味で、4番ほどの長打力はないが危険なバッター。そして4番の新海は、高校通算48本のホームランを記録している、プロ注目の強打者。難しいが、吉岡でなんとか抑えて新海には回したくないところだ。
その吉岡への初球、神山はカーブを投じる。低めのボール気味のところだったが、吉岡は手を出してきた。空振りするかと思ったが、吉岡は片手一本でうまく合わせてセンター前に弾き返す。外野が深めに守っていたせいか、1塁ランナーは3塁に進塁。これで2アウト1、3塁。迎えるバッターは4番の新海。
新海は1度ゆっくりと屈伸してから、堂々とした足取りで左打席に入った。風格といい体格といい、ゴジラみたいなやつだ。ユニフォームのせいで分かりにくいが、腕なんか神山の足くらい太いんじゃなかろうか。顔だけは爽やかな感じが妙にアンバランスで面白い。
「へえ、鳥居勝負するんだ」
横の敬太がぼそっと呟くのを聞いて、フワフワした感覚から一気に現実に引き戻されるのを俺は感じた。
「敬太的には、敬遠?」
「まあ4番勝負か5番勝負かで言ったら、5番と勝負する方が楽だろうな」
「でも、敬遠すると満塁だぞ。1ヒットで二人帰ってきて逆転されちまう」
「逆転だろうと同点だろうと同じことだよ。うちが勝つには、この回無失点で抑えるしかないんだ。それだけ考えれば、敬遠の方が理に適ってる」
「……なるほど。そういう考え方もあるな」
敬太の考えを聞いていると、一気に不安が押し寄せてきた。バッテリーはその辺り、ちゃんと考えているのだろうか。ジャイアントキリングを目前にして、舞い上がっていないだろうか。
「まあ、大丈夫だろ。今日勝てなかったら、それこそ嘘みたいだ」
俺は自分に言い聞かせるように言った。敬太は何も返事しなかった。




