写真と彼女と代打俺

一回戦②

　「おいおい、いきなりピンチかよ」

　俺はベンチで独りごちた。一回表、相手の川工ーー川島工業ーーの攻撃で、うちは早速１アウト二・三塁のピンチを迎えていた。またそのピンチの招き方が、いかにも緒戦で硬くなってますというお手本のような形なのだ。

　簡単に説明すると、まず先発投手の敬太が相手の先頭打者をフォアボールで出した。しかも、遊び球なしの４球でだ。この時点で監督含めベンチやスタンドにいる部員の多くが、「あ、ヤバイ」と察したことだろう。

　だが、そこは相手も弱小校。これだけストライクが入らなそうな敬太に対して、二番に送りバントをさせてきてくれたのだ。正直言って送られようが何されようが、この状況ではとにかく一つのアウトが欲しいからかなり助かる。

　ベンチから、「頼むからさっさと決めてくれよ」と俺も祈っていた。こういうときに打者がバント下手で２ストライクまで追い込んでしまうと、ヒッティングに切り替えてくる可能性もあるからな。それで余計に状況が悪化したら目も当てられない。そのため、川工の選手だけでなくグラウンド上の誰もが２番打者のバント成功を願うという、ある意味平和な空間がそこには出来上がっていた。

　結論から言うと、２番君は皆の期待通りバントをきちんと成功させた。ただ残念なのが、彼が期待以上に上手くやったのとこちらのミスとのコラボレーションで、アウトが一つも取れなかったことだ。

　ストライクを取るのに苦労していた敬太の完全に置きにいったストレート、その勢いを少し殺した打球がマウンドからわずかに一塁側の方へボールが転がる。バントにしてはちょっと勢いが強いけど、二塁でアウトにするには厳しい、そんな打球。敬太はそれを捕球するや否や、「ファースト！」と叫ぶ捕手の声も聞こえなかったのか、堂々と二塁へ放った。結果オールセーフ。いわゆるフィルダースチョイスというエラーだ。

　その後相手の３番打者がきっちりバントを決めて、今に至る。打席には４番打者。まずい。まず過ぎる。

　初回なのでまだ絶対に点をやってはいけないという場面ではない。だから、内野は前進守備をとらず定位置に守っている。一方、外野は前進守備だ。初回から複数得点は流石に辛いからな。長打はもう仕方がないということなのだろう。

　敬太の方も、少しずつではあるけど制球がまとまり始めていた。ただ、それをのんびりと待ってくれるほど相手も優しくはなかった。

　２ボール１ストライクから迎えた４球目。敬太の放ったストレートは甘いコースにいき、相手の４番もそれを逃さず捉えた。ライナー性の打球が一、二塁間を抜け、ワンバウンドしてライトのところへ。

　外野が前進守備だったのと打球が速かったこと、さらにライトの神山が強肩だったことも幸いして二塁ランナーは三塁で止まってくれたが、それでもなお１アウト一・三塁のピンチ。

　心臓をバクバクさせながらマウンドの敬太を見つめていると、横から監督の視線を感じた。そちらを振り向くと、

　「甲斐、すまない。伝令に行ってくれないか」

　と頼まれる。なんでもいいからとにかく試合に貢献したかった俺は、一も二もなく引き受けた。

　「いやあ、マウンドはいいな。やっぱり」

　伝令として送られてマウンドに向かった俺は、着くなり思わずそう口にしていた。

　「お前、よくこの状況でそんな呑気なことが言えるな」

　ショートの島崎が、呆れたように言う。

　「なあ正人、余裕あるならここ代わってくれよ〜」

　敬太が俺に泣きついてくる。怪我でマウンドに上がれない俺に向かってグレーゾーン気味の冗談を飛ばす敬太に、マウンドに集まった内野手の何人かは微妙な顔をしていたけれど、俺としてはこいつに言われる分には何も問題ない。神山に言われたら流石にイラッとしたかもしれないけど。

　「無理無理、ガラスの右腕だから」

　「えー、俺もうやばいよ、本当。やっぱ全然違うもん、公式戦」

　「そうやって泣き言言えるうちは大丈夫だな。本当にやばいやつはもう喋る気力もないぞ」

　「そんなー。冷たいぞ、正人」

　俺と敬太の慣れた掛け合いに、他のやつも苦笑を漏らすしかない。島崎が笑いながら俺たちの会話をまとめ始める。

　「確かに、この感じならまだまだ大丈夫そうだな。１・２点なら全然なんとかなるし、一つ一つアウトとってくぞ」

　おう、と他の内野手が応じ、軽くサインプレイ等の確認をしてみんなは散らばった。俺も今日の定位置である、ベンチの最前列に戻る。

　「甲斐、よくやった」

　ベンチに戻ってきた俺を、監督がねぎらう。

　「そんな大したことはしてないですよ。ただ敬太と駄弁ってきただけなんで」

　「それも大事な仕事だ。ほら、見てみろ」

　監督はマウンドの方を顎で示した。釣られてそちらを見ると、そこにはさっきよりも大きく見える敬太の姿があった。

　「おかげであいつも少しは緊張がほぐれたみたいだ。これでこの回津野が無失点に抑えてきたら、今日のMVPはお前になるかもしれないぞ、甲斐」

　「監督、そういうのはせめてこのイニングが終わってからにしてくださいよ。これであいつが滅多打ちになったりしたら、どうするんですか」

　「滅多なことは言うもんじゃないぞ、甲斐。『滅多打ち』だけにな」

　「……」

　外気温は３０度を超えているはずなのに、ベンチ内には寒風が吹き荒んだ。

　結局その回敬太はなんとか後続を断ち、１失点で留めた。つまりこれから、こちらの初回の攻撃に入るわけなんだけど……。

　「なんかあんまり、速くねえなあ」

　５番ファーストの桜井がぼそっと呟く。彼ほど正直に言ってしまうやつは他にいなかったけど、皆おそらく同じことを思っていた。相手先発、斎藤の球速は多分１１０kmちょっと。打ちごろと言えば打ちごろだけど、二回戦の東院戦対策でバッティングマシンの設定を１４０kmに設定していた（ちなみにこれ以上速くすると、うちのマシンは恐るべきデッドボーラーになってしまう）俺たちにしてみれば、逆に打ちにくいスピードとも言える。

　ともかく１番打者が打席に入り、攻撃が始まるその初球。相手投手の投じたボールを、すかさず捉えてレフト前ヒットになった。

　「あれ、やっぱり普通にいけそう？」

　ベンチ内で誰かが呟くのが聞こえる。続く２番も初球でバントを成功させ、１アウトランナー二塁で打席に入るのは３番の島崎。

　「島崎、いけるぞ！」

　「振ってけ振ってけ！」

　ベンチがイケイケモードの中、島崎は冷静にボールを見ていく。いくら相手が微妙な投手だとはいえ舐めないその姿勢は流石だけど、常に慎重なのが良いとも限らなかったりする。今回はどうやら、「限らない」方の場面だったようだ。

　２ストライク２ボールからの５球目。斎藤が投じたのはストレートよりさらに遅いボールだった。チェンジアップだろうか？ちょっと落ちたような気がするけど、ベンチからだとよく分からない。

　島崎は体勢を崩されながらも、なんとかバットに当てた。センター方向に向かった打球は思いの外伸びたものの、相手のセンターが正面で補給して２アウト。

　その次の打者も捉えた当たりながら、ライトが追いついてノーバウンドで捕りスリーアウト。向こうの攻撃に比べると、結果的には随分早く終わってしまった。

　「惜しいなあ。捉えてはいるんだけどなあ」

　首をひねりながら佐々木が自分の守備位置であるサードに向かう。俺はこのとき、なんとなく嫌な予感がした。

　「一応は一巡したわけだが、まだ無得点か。ふむ」

　三回裏の攻撃が終わり未だ１点も取れていない状況を前に、監督は顎をさすりながら顔をしかめた。まだまだそれほど焦っているでもないだけど、うまくいっているとも言えない、そんな表情。まあ監督は普段から渋い顔をしているから、ある意味標準装備の顔とも言えるけど。

　四回表の川島工業の攻撃は、三者凡退でさっさと終わった。というか、この試合で相手が三者凡退したのは地味にこの回が初めてかもしれない。ベンチに戻ってきたレギュラー陣の顔も、行く前より心なしか明るくなったような気がする。

　気合いのこもった円陣の後、四回裏の攻撃が始まった。流れが少しこちらに傾いているのか、３番、４番と連打が出てノーアウト一・三塁。打席に立つのは（自チーム比で）長打力のある５番の桜井。はっきり言って、点が入らなかったら嘘だと思うような場面だ。ゲッツーですら得点できるのだから。

　桜井は、きっちり最低限の役目を果たした。つまり、レフト方向に大きなフライを打ち上げたのだ。飛距離的にも、三塁ランナーがタッチアップするには十分。こうしてヤマ高は、待望の夏の大会初得点を記録した。

　続く６番の敬太もライト前ヒットで出てチャンスは続くかと思ったけど流石にそう上手くはいかず、７番のショートゴロゲッツーでこちらの攻撃は終わってしまった。でも、この回同点にできたのはかなりデカい、と思う。油断している間にずるずる回が進んじゃうなんてこともときにはあるから。

　その後さらに回が進み、五回が終わって１対１で同点のまま。敬太は尻上がりに調子が良くなり、打線も斎藤をかなり捉えつつはあるのだけど、まだ均衡が保たれている。

　五回終わりには会場校によるグラウンド整備が行われるから、他の回終わりに比べて次の回までの時間が長い。こういう「間」の長さって意外と重要で、ここが試合の潮目になったりすることもよくある。だからこそこの時間の使い方は大事で、円陣を長めに組んで斎藤についての情報や、相手の打線についての情報を共有してやるべきことを確認しておく。

　そうして始まった六回。どうもさっきの時間が潮目になるかもと思っていたのは当たったようで、敬太は二回以降出していなかったフォアボールをいきなり先頭の４番に与えてしまう。

　「ドンマイドンマイ！切り替えてけ！」

　ベンチの部員やグラウンドで守っている内野手たちが声を掛けてなんとか敬太を盛り立てようとする。俺は投手を実際にやってたから分かるけど、こういうときの投手ってなかなか孤独。別に出したくてフォアボールを出しているわけじゃないからな。特に、普段は野手でそれほど投手としての経験を積んでいない敬太なら尚更だろう。だから、声かけは大事なことだ。

　「１点くらいなら大丈夫だぞ！打線が取り返してくれるから！」

　俺も声を掛けた。切り替えてけ、とかドンマイあたりが声かけとしては確かにテンプレだけど、自分が投手の時はどちらもあんまり響かなかったので、自分なりに考えた結果こういう声のかけ方になった。

　「お前もなかなか言うじゃないか」

　聞かれていたのか、耳聡く監督がいじってくる。

　「いや、言葉の綾ですよ？実際、あいつらがこのまま終わるとは思いませんし」

　「そうだな。だが、そんな他人事みたいな風では困るぞ」

　「へ？」

　監督はニヤリと笑った。

　「準備しておけ。お前の出番も、そろそろだから」

　「で、どうなったの？結局」

　試合が終わり、家に帰ってからのこと。俺は部屋で名取と電話をしていた。

　「どうなったと思う？」

　実のところ、試合には５対１で勝利した。敬太がなんだかんだで８回まで１失点と粘り、打線も６回からは毎回追加点を上げることができたのだ。９回には神山も登板している。

　「勝ったんでしょ」

　「当たり。なんで分かったの？」

　あっさり答えを当てた名取に拍子ぬけを覚えながら、俺は尋ねる。

　「分かるよ。声とかで」

　「そんなに分かりやすいかな？」

　俺は首を捻った。といっても電話だから、名取には見えてないけど。

　「嘘。本当のことを言うとね、スマホの高校野球サイトで速報やってたから、授業の合間にこっそり追ってた」

　「なんだ、じゃあ最初から知ってたのか」

　「ごめんね。授業受けてる間もどうしてもそっちが気になっちゃって、我慢できなくて」

　「別に、謝ることじゃないだろ。というかむしろ」

　「むしろ、何？」

　「……いや、なんでもない」

　むしろ、試合のことを名取がそれほど気にしてくれていたのが嬉しい。そう言いたかったけど、流石に照れくさくて言えなかった。

　「そういえば、甲斐は試合出た？」

　少しの沈黙の後、名取が尋ねてくる。

　「あれ、速報見てたならもう知ってるんじゃないの？」

　「そこまでは分からないよ。ただ得点が追えるだけのやつだったから」

　「あ、そっか。……まあ一応、出たよ」

　なるべく平坦な声になるように意識して、俺は答えた。

　「もしかして、打てなかった？」

　「……なんで分かるかな」

　「だから分かるよ、声聞いてれば」

　この下り、さっきもやった気がする。

　「でもそれなら逆に、良かったかもね」

　「良かった？なんで」

　俺は首を傾げた。打てなかったことに、良かったもクソもないだろう。

　「だって今日打っちゃったら、次の試合で打つ確率が下がりそうだから。私が見に行くのは次の試合だし」

　「……何それ。おみくじじゃないんだから」

　気が付くと、俺は笑っていた。名取のおみくじ理論が正しいとは思わないけど、ちょっと下を向きかけていた心が上向いていく、そんな気がする。それに、「野球は確率のスポーツ」なんて言うくらいだし、彼女の言うこともあながち間違いではないかもしれない。

　その後も、二人で色々話した。時間があっという間に過ぎ、そろそろ通話を終えようかという頃。

　「じゃあ、切るね」

　「おう」

　「……二回戦、頑張って」

　そこでぷつっと、通話が途切れた。画面にはまだ、ラインの名取のアカウントがでかでかと表示されている。それを眺めながら、そう言えばこの間の電話の時も今日も、名取の方から電話を切ったなという、どうでもいいことを考えていた。