背番号
梅雨が本格化し、じめじめとした空気が漂う六月末のとある日。昼休みにいつも通りの四人で昼食をとっていると、不意に校内放送で俺の名前が出た、ような気がした。
「おい、今正人呼ばれてたぞ」
敬太の注意で、気のせいじゃ無かったことを確認する。でも、誰がいったい俺なんかを?今日は数学の授業中にほんの少しだけ寝てしまったことを除いては、特にやらかしたりしていないはずだ。
「馬鹿、監督だよ。ちゃんと聞いてなかったのか?」
「監督!?まじで?それを早く言ってくれよ」
弁当箱に蓋をして慌てて立ち上がる俺を、呆れたような目で見つめる他の三人。そういう目をされると傷つくから、正直やめて欲しいな。
「なんかやらかしたの?」
新聞部の酒井が、興味津々で俺に訪ねてくる。こいつは人のゴシップが好きという、ある意味非常に新聞部に相応しい性格をしているから注意が必要だ。といっても、人により強弱あるにしても噂が好きなのは人類に共通の特徴かもしれないけど。普段は気をつけているけど、俺もそういう話をたまーにしちゃうし。
「なんもしてない。だいたい、野球部で何かやらかすと出場辞退!とかなりかねないからな。恐くて悪いことなんて何もできねえよ」
「その言い方だと、まるで部活が終わったら悪いことし放題みたいだな」
「いやいや、もちろん悪いことなんてしねえよ?部活関係なしに」
「知ってるよ。ちょっとからかっただけ」
ニヤニヤと笑う柴田に、俺はぐぬぬと歯ぎしりする。柴田は時々こうして俺の純情をもてあそぶ。もしかすると、俺がもてあそばれ易い性格だからっていうのもあるのかな。もちろん柴田も酒井も、良いやつであることに変わりはないが。
「いいから行きな。監督待たせると面倒くさいぞ」
「それな。怒られないことを祈るとするよ」
敬太の注意に頷くと、俺は急いで教室を飛び出した。
職員室の前にたどり着くと、そのまま勢いで入るのを俺は躊躇した。職員室って昔からなんか緊張するんだよな。少なくとも長居したいと思えるような空間ではない。
そのとき、右ポケットの中のスマホが振動するのを俺は感じた。取り出して見ると、ラインの通知が一件。それも、名取からの「大丈夫?」という一言だけ。でもその一言が、僅かにさざなみ立っていた俺の心を落ち着かせた。
既読をつけてしまった以上返信した方がいいので、文面を考えてみる。「大丈夫」だけでも問題ないけど、それだと何か味気ない。スタンプでも返した方がいいだろうか。でも俺の手持ちのスタンプは、デフォルトで搭載されているやつしかない。なんてことだ、こういうときのために何か面白いスタンプを手に入れておくんだった!
画面を見ながらどう返信しようかと脳内で格闘していると、職員室の扉が突然開いて俺はまともに顔をぶつけた。非常に痛い。
「うわ、ごめんなさい!……って、甲斐じゃないか」
顔を上げると、そこにいたのは神山だった。神山は野球部でピッチャーをやっていて、俺が怪我で投げれなくなった今、実質的にはヤマ高のエースだ。
「なんだ、神山も呼ばれてたのか。全然知らなかったぞ」
「まあね。……じゃあ俺、もう行くから」
「あ、ちょっと」
俺が呼び止める間もなく、神山はその場を去ってしまった。元々そこまで仲がいいわけでもなかったけど、今の態度は明らかにおかしかったような気がするな。
閉まった扉を開け直して、大声で失礼しますと言いながら俺は職員室に入った。こういうところだけは野球部で鍛えられているおかげもあって、比較的ためらいなくできる。職員室の先生のうち何割かの注目を集めていることに多少居心地の悪さを感じながら、根本先生ーー監督のことだーーはいらっしゃいますかと声をかける。ここまでがヤマ高で職員室に入って先生を呼ぶときの、テンプレみたいなものだ。
こういう時意地悪な先生だと聞こえないフリをするという雑な絡みをしてくるので誠にうざったいが、監督に限ってはそんなことは無かった。室内左奥の方で監督が右手に持ったファイルを高く掲げてくれたのを目印に、そちらの方へ向かう。
「わざわざ呼び出したりして悪かったな、甲斐。最近はどうだ、ちゃんとバット振ってるか」
監督は何も持っていない左手で頭を掻いていた。気まずげなその態度にあまりいい話ではないということを俺は予感する。
「朝昼晩と、一応振ってはいます」
「そうか、それは良かった。……いや、こんなことを話していてもしょうがないな。話というのは他でもない、背番号のことだ」
やけに改まった態度で、監督は本題に入った。背番号。背番号か。春までは一番を貰うのが当たり前だと、それは自分の番号だとどこかで思い込んでいる節があった。でも今はそうじゃない。おそらく俺は、二桁番号かベンチ外かのどちらかだろう。もう分かっていることではあるけど、こうしてその事実が眼前に迫るとやはりきついものがある。
「一番なんだが、正直言って今回は神山に渡そうと思っていた」
神山というのは春まで控え投手だった部員で、今回俺が怪我をしたことで実質的なエースに繰り上がっていた。監督の判断は全くもって妥当だと俺も思うし、個人的な感情を排して客観的に見れば全面的に賛成できる。ただ、なぜに過去形?
「このことを甲斐に話す前に、神山にもしたんだ。そうしたらあいつ、エースナンバーは甲斐にと言って譲らないんだよ。どうだ、甲斐?神山から言い始めたことだし、お前さえよければ今回も1番は甲斐にするが」
すぐには答えられなかった。もちろん、1番が欲しくないと言えば嘘になる。でも、こんな形で貰ったとして、それはエースナンバーと呼べるのだろうか。気を使って譲られた1番なんて、俺の本当に欲しかったものではないんじゃないかと、どうしても思ってしまう。
そのとき不意に、先ほど職員室の前ですれ違った神山の様子が、脳裏にやけに鮮明に思い出された。なぜだかわからないけど、ふつふつと怒りが湧いてきた。
「……ちょっと考えさせてください」
気がついたらそう口に出していた。俺が結論を出すまで黙って待っていてくれた監督は、
「まあ、いきなりこんなことを言われたら、すぐには決められないだろうな。落ち着いて考えてから結論を出してくれればいい」
と言ってまた頭を掻いていたけど、俺にはもう監督の言葉がほとんど耳に入っていなかった。
職員室を出た俺は、三年B組の教室に向かった。B組は俺のクラスではなくて、神山のクラスだ。別に殴り込みをしてやろうだとかそんな物騒なことは考えていなかったけど、直接会って話さないことには俺の気が済まなかった。
第一あんな気まずそうな顔をするくらいなら、最初から人に背番号を譲るなんて考えずに堂々と自分が一番を受け取れば良かったんだ。一体神山のやつは何を考えているんだか。
B組の戸口で喋っている男子に声を掛けて、教室内におそらくいるだろう神山を呼んでもらった。果たして、神山が俯きがちに教室から出てきた。
「……聞いたんだね。監督から」
「ああ。そのことでちょっと話そうぜ」
「いいよ。どのみち甲斐とは話さなきゃいけないと思ってたんだ。ここじゃあ何だし、補助2に行こう」
補助2とは補助教室2のことで、時々移動教室で使われる以外ほとんど常に空いている場所だ。ちなみに1もあるけど、こちらは三年の階からは流石に遠すぎる。
目当ての教室に入って扉を閉めると、教室中央あたりの机に腰を下ろした神山がこちらに向き直った。それを確認した俺は早速口を開く。
「で、どういうつもりだ?俺に遠慮してるならやめて欲しいんだけど、そういうの」
「そんなんじゃないよ。ただ、俺は自分の実力で甲斐から一番を奪ったわけじゃないし、なんというか気持ちの方が……ね。それに俺、10番にも愛着あるから」
少し俯きがちに、神山が答える。本心ではないな。俺はそう思った。
「本当にそう思っているなら、俺の目を見てもう一度言えるか」
「……」
神山は普段から自信満々というタイプではないけれど、かと言ってそこまで卑屈なやつではない。本心から言ってるならちゃんとこちらを見て言えるはずだが、そうでないところを見ると、やっぱり……。
俺はため息をついた。どうして俺が、わざわざエース様に活を入れてやらないといけないんだ。普通逆だろ。まあいいけど。
「あのなあ、1番なんてただの番号なんだ。貰えるなら貰っとけよ」
自分で言いながら、嘘だと思った。だって俺は、1番をただの番号だなんて思っていない。何ならこの部で最も1番にこだわっている自信すらある。
「ただの番号なら、それこそ俺が貰うのを断ったって別にいいじゃないか。なんで甲斐がそんなことにわざわざ構うんだ?」
「……」
痛いところを突かれた。確かにそうだ。俺はなんで今、神山にこんなにイライラしているのだろう。こいつが1番を貰おうが断ろうが、本来なら大した話じゃないじゃないか。
「結局甲斐は、プライドが高いから単に人に番号を譲られるのが嫌なんだ。俺が貰うとか貰わないとかはどうでもよくて、自分が傷つきたくないだけだろ」
図星を突かれた、ような気がする。神山のことなんて、俺は何も考えたいなかったのかもしれない。
俺は俯きがちに微笑を浮かべた。そんな俺の様子を見て、なぜか神山ははっと息を呑んだ。
「そうかもしれない、な。悪かった。でも、1番は受け取れないから。せいぜい頑張ってくれ」
「いつもそうだ。甲斐は自分のことしか見てなくて、俺のことなんて一切見てない。……俺は……に、……を…てるのに」
教室を後にする俺の背中に、神山の囁くような声がわずかに聞こえた。
補助教室を出てからクラスに着くまで、ずっと考えていた。本当にこれでいいのか。俺の選択は、間違ってるんじゃないかって。でも、俺にとっては結局こうするしかなかったし、現に今そうしている。後は、自分の選択を自分の責任で引き受けて、噛み締めるしかない。そういうことなんだろう。
クラスに着くと、敬太たちは教室にいなかった。敬太はおそらくグラウンドに出ているとして、他の二人は一体どこにいったのだろうか。
自分の席に座ると、左斜め前方から視線を感じたのでそちらの方を見る。するとそこには、席に座って俺の方を軽く睨みながら、自分のスマホを指差してなにやら俺に伝えようとしている名取の姿があった。
俺は彼女のジェスチャーで、不意に職員室に入る前のことを思い出した。しまった!そういえばさっき、彼女からラインが一件来てたんだった!結果的に既読無視になってたよ。最悪。
慌ててスマホを取り出し、ラインにデフォルトで搭載されているサムズアップした人型のスタンプを送っておいた。




