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約束

 「名取が先生の、姪……?」


 俺は馬鹿みたいに、先生の言ったことを繰り返した。でも、実際この場にいたら、俺じゃない他の誰かでも一瞬呆けちまうくらいの驚きがあっただろう。例えるなら、急に目の前でドラマが始まっている、そんな感じ。


 名取の方をチラッと見ると、彼女はそこまで衝撃を受けていないように見えた。いつも通りの無に近い表情を保っている。でも、内心ではどうなんだろうな。外からは見えない内側の部分では名取が意外に感情豊かだってことを、最近の俺は少しずつ気付き始めていた。


 「そう。さつきちゃん、で合ってるだろう?彼女の名前」

 「そうすね。名取は皐月って名前で……合ってるよな?名取」


 急に自信が無くなった俺は、名取に確認を取ろうとした。いや、もちろん好きな子の名前を忘れたりはしないよ?さすがの俺も。でもこういう場面だと、本当に合ってたかなって急に不安になるじゃん。普段名前で呼んだりしていないし。


 名取はなにも答えなかった。というかさっきから待合室と診察室を繋ぐ扉の前に突っ立っていて、微動だにしない。


 「おーい、大丈夫か」


 俺が名取の顔の前で手を振ると、彼女は壊れたロボットが再起動するみたいな感じで急に意識を取り戻した。かと思うとすぐさま椅子に座る先生に駆け寄り、「もしかして、母さんのお兄さん?そう、ですよね?」と先生の右腕を揺さぶった。


 「そうだよ、さつきちゃん。僕はまーちゃん、いや、君のお母さんのお兄さんだ。お母さんは元気にしているかい?」

 「母は……そうですね、元気です」


 一瞬顔を曇らせた名取の様子から何か気づいたのか、先生も表情を暗くした。


 「そうか、ごめんな。あんなことがあった後だものな……」

 「あの、聞いていいのかどうか分からないですけど……、あんなことって?」


 気づいたら俺は、二人の会話に口を挟んでいた。もちろん、今俺が割とお邪魔なのは分かっているけど、それでも名取の事情はやっぱり気になってしまう。


 「それは……、さつきちゃん、言っていいのかい?」

 「大丈夫です。それに、自分の口で言うので」


 名取は先生の対してきっぱりとした態度を取ると、改めて俺の方に向き直った。そこまで正面から見つめられると、俺の方がむしろ恐くなる。お前に私の話を聞く覚悟があるのか?と問いただされているような感じ。


 「やっぱり無理に言わなくてもいいんだぜ」という言葉を、俺はすんでのところで飲み込んだ。今この状況においては、その言葉は相手への思いやりからというよりは保身の感情から湧くもので、しかもそれを言ってしまうと、名取との関係を二度と修復できないような気がしたからだ。


 覚悟を決めた俺は、名取の目を正面から見返して「聞きたい、名取の話」と一言だけ言った。俺のその様子に彼女は満足げにうなずく。


 「良い感じになってるところ申し訳ないんだけど、やっぱり次の患者さんに迷惑かかっちゃうから、続きは診察室出てからやってもらっても良いかな?」


 今度は先生が、本当に申し訳なさそうに俺と名取に割り込んでくる。確かに他人に迷惑がかかるのは本意じゃないけど、そもそも名取を診察室に呼んだのもあんただけどな、と言わないだけの分別は俺にもあった。


 「僕もさつきちゃんとはまた話したいから、甲斐君の診察の時にまた二人で来てよ。ね?」

 「はい、そうします」


 これ以上ないというくらいの速さで、名取が即答する。病院の先生が自分の叔父さんだったという事実は、名取にも何か感じるところがあったということだろうか。


 あれ、そう言えばすっかり忘れてたけど、俺の右腕の診察は?俺にそう言われた先生は、慌てて俺の腕を取る。


 「あ、そうだったね。うん、よし。オーケー」


 おい、なんだその電車が出発する前の車掌の掛け声みたいな確認は。ちゃんと診ないなら金返せ。




 「まあ、そんなに深刻な話じゃないんだけどね。結論から言っちゃうと、私にはお父さんがもういないんだ」


 駅に向かうまでの道中で、名取はそう切り出した。ちょっと時間が空いたせいでさっきの覚悟がふわふわと宙に浮きかけていた俺は、思考を切り替えて彼女の話の続きを促す。


 「いない?それはつまり……亡くなられた、ってことか?」

 「そういうこと」


 やけにあっさりと名取はそう言った。まるで自分の親の話じゃないみたいだ。


 「てことは、今名取の家は……」

 「そ。私と母さんの、二人暮らし」

 「そっか。大変、だったんだなあ」


 こういうときになんて言えばいいのか適切な言葉を持ち合わせていなかった俺は、月並みなことを述べるしかなかった。


 「どうだろ。お父さんが死んじゃったのは、私が三歳になる前の話だし……。正直私は、なにが大変なのかあんまりよく分かってないんだ。だって私にとっては今の家が当たり前で、両親がいる暮らしがむしろ想像できないから」

 「……そっか」


 「両親がいる暮らしが想像できない」という名取の感覚が俺にはむしろ想像できなくて、それが俺と名取の現状における感覚の断絶というか、距離を表しているような気がした。俺は悔しかった。こんなことを決して思ってはいけないのは分かるのだけれど、今だけは彼女の気持ちを理解してやれる人、彼女と同じ境遇の人が少し羨ましくなった。


 「大変な思いをしたのは、私じゃなくて多分お母さんだろうなあ」


 ポツリと、名取が呟く。多分、そんなことはないはずだ。名取が自分では気づいてないだけで、名取自身も俺みたいなやつと比べると苦労していてーーいや、こういうことを両親が欠けたことのない俺が考えること自体が、ある意味傲慢なのかもしれない。つまり、父親がいなくて大変だったろうとかそういう感情の決めつけをすることが、彼女からするとむしろ苦痛なのだろう。


 今俺に言えることは、何もない。俺はただ黙って頷くと、続きを促した。


 「私自身はお金で困ったことないんだ、本当に。お母さん、バリバリのキャリアウーマンって感じでガンガン働いてたから。これだって、お母さんに買ってもらったものだし」


 名取はスクールバッグから、例のカメラを取り出して見せた。このカメラ一つにそんな背景があったなんて、盗撮された頃の俺は考えもしなかったな。


 「名取は美大とか、考えたことないのか」

 「美大はお金かかるからね。芸大なら安く済むけど、そこまでだと多分受からないから」

 「まあ、現実問題きちいよなあ」


 ため息をつく俺を見て、何故か名取が微笑む。


 「なんだよ?」

 「ごめん。なんか甲斐、自分事みたいに悲しむからちょっと面白くて」

 「そっちこそ他人事みたいだよな。自分のことなんだぜ」

 「だって別に、そんなに辛いことでもないし」

 「そういうもん?」

 「そういうもん」


 ふーん。俺はなんとなく道端に落ちていた石ころを蹴った。蹴った石は歩道の先の方へ転がっていく。その石を見ながら、小学生の頃は一個の石だけを蹴って学校から家まで行けるかみたいなことをやったな、という今全く関係のないことを思いついた。




 駅から電車に乗り、二つ離れた駅で降りて少し歩くと目的のデパートにたどり着いた。週末ということもあって、辺りは多くの人でごった返している。


 デパートの一階は食品売り場なので、この階を飛ばして色々な店を外から見たり入ったりしながら上へ上へと上がっていく。名取が一番長くいたのは婦人服ばかり売っている階で、俺にとってこの階は非常に居心地が悪かった。何せ男が少ないし、いたとしても俺と同じようにデートもしくはそれに類するもので彼女に連れてこられた犠牲者ばかりなのだ。なぜそんなことが分かるかって?そんなの目を見れば一発だ。死んだ魚のような目をしているからな。そしておそらく、今の俺もそんな目をしている。


 「でも服は、高いよね。お礼で貰うには」

 「そ、そんなこと気にしなくていいぞ。なんだってどーんとこいだ」

 「じゃあこれ」

 「ふーん。こういうのが好きなのか……って、二万越え!?」

 「だめ?」

 「いや、だめってことは……」


 うろたえる俺の様子に、名取は一つため息をついた。


 「ほらね。どーんとこいだなんて軽々しく言っちゃ駄目だよ。良い服は高いんだから」

 「……」


 どうやらユニクロ基準で考えていた俺が馬鹿だったようだ。世界にはまだ、俺の知らないことがたくさんある。


 「うーん、ちょうどいいのがないなあ」

 「まじで?ここ七階で、ここより上はもうレストランしかないけど」

 「そっか。これ以上上がってもしょうがないなら、もう降りよう」

 「降りるって、もう一回見て回るってことか?」


 絶望に駆られる俺の表情を見て、名取がぷっと吹き出す。


 「大丈夫。どの階も一回見てるから、今度はもっと短いと思うよ」

 「ならいいけど……」


 というわけで俺たち二人は、今度は階を下りながらぶらぶら見て回る流れになった。


 エスカレーターで六階に降りて先ほどはそれほど長く居なかった雑貨屋を物色し始めたところで、何か思いついたのか名取が急に呟く。


 「そうだ」

 「なんだ、なんか欲しい物でもあったか」

 「いや、そういうわけじゃないんだけど。名案というか、代案を思いついたから」

 「代案?」

 「そう」


 名取はたった今見ていたキーホルダーから顔をこちらに向けた。その表情は何かいたずらを思いついた子供のようだった。


 「悪い顔をしてるな。嫌な予感しかしない」

 「またそういうことを言う。言わないよ、代案?」

 「ごめんなさい教えてくださいまじで」

 「よろしい」


 えへんと咳払いする名取。得意げな様子はちょっと可愛い。たぶん俺は彼女には永遠に敵わないんだろうな、うん、そんな気がする。そしてそれを、心の中で既によしとしてしまっている自分がいる。


 「シャッターチャンスを誕生日プレゼントにする、ていうのはどうかな」


 どういうこと?俺の頭の中はクエスチョンマークでいっぱいになった。


 「そのままだよ。夏の大会、あるでしょ?そこで私が撮りたいなって思うような場面を、演出して欲しい」

 「なんだそれ、よく分からないけど……。とりあえず俺は、代打でできるだけヒットを打てばいいんだな?」

 「そう思ってもらっていいよ」


 簡単そうに言うけど難しいぞ、実際。名取もなかなか我がままな子だな。


 「で、どうするの?そうする、それともそうしない?」

 「します、します。約束します!」

 「さすが甲斐。今の覚えとくから」


 ニコッと笑う名取を見て、約束なんて言ってしまったことを早くも俺は後悔し始めていた。


 「あ、ついでにこのキーホルダーも欲しい」

 「……贈り物は普通一つじゃないか?」

 「私誕生日が5月26日なの。これはその分。だめ?」

 「……いいよ」


 彼女はやはり、我がままな子だ。

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