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プロローグ とある医師の独白

 人は車を運転している時に普段と人格が変わる、とはよく言われるが、私もその例外ではない。


 こう言っては何だが、普段の私は物腰柔らかで落ち着いた人間であると、自他共に認められている。

 しかし、車を運転すると途端に表情が変わるらしい。


 らしい、とつけたのは、当然のことながら運転中に自分で自分の顔を見ることなどできないからで、要するに、運転中の私の顔を見た友人からの伝聞なのだ。

 もちろん、流石に法定速度を大幅に超えたりするようなことはないが、日常生活ではいちいち気にも留めないような些細なことにも、運転中だといらいらしてしまうのは事実だ。


 ところがそんな私にも、一緒に車に乗っているとそれだけで年甲斐もなくうきうきしてしまい、私の内なる鬼を顕現させることなしに済む素晴らしい人が存在する。

 もっとも、今朝はその当人が一緒に車に乗っていたわけではないので、私は車を運転しているときのノーマルモードである、般若の如き顔で職場に赴いた。


 着いた職場は「村山整形外科」という病院で、私はここで恥ずかしながら医師を勤めさせてもらっている。

 自分のような者が医師という人の命を預かる仕事についてしまって大丈夫だろうか、という気持ちは大学時代からずっと持っているが、実際このような考えをちらりとでも胸に抱えたことのない同業者は、極めて少ないのではないだろうか。

 逆に言えば、こういう気持ちを持っていない、つまりは自分が医師になることに僅かな疑問すら全く抱いていない人の方が、ある意味では危険かもしれない。


 白衣を着て診察室に入り、いつものように仕事を始めてからその日何人目の診察だっただろうか、ともかく午前中のことだった。


「次の方どうぞ」


 受付の女性が、待合室にいる患者さんにそう声をかけるのが扉越しに聴こえた。

 すると待合室から、高校生くらいの少年がこちらに入って来る。

 肌を浅黒く日焼けさせ、髪が長いと洗うのが面倒くさいからと、無造作に切ったような短髪姿。

 日本によくいるスポーツ少年代表、といった感じの風貌だ。

 その顔には見覚えがなく、ディスプレイに映る彼の電子カルテも真っさらな状態。

 要するに、この少年は初診の患者なのだ。


「こんにちは。えーと、……甲斐君、で良いのかな」


 コンピューターのディスプレイに表示されているその名字を見たときには、奇妙な感情が沸き起こった。

 十年と少し前、この病院に通っていた同じ苗字の少年がいたのだ。

 しかし、甲斐という名字は佐藤や田中ほどにはいないが、特別珍しい苗字という訳でもない。偶々だろう。


 甲斐少年は私の顔をまじまじと見つめた後、少し俯いて、はいと言った。

 私の顔に何かついているのだろうか。それとも単に、彼が恥ずかしがり屋なだけだろうか。

 釈然としないものを感じながらも、話を進める。


「右手首をサッカーで怪我したそうですね」

「はい」

「どういう風に怪我してしまったのか、簡単に説明してもらえますか」


 怪我の時間や状況、場所等は事前に待合室で紙に書いてもらっているが、本人の口から改めて説明してもらうことでより理解が深まる。

 というよりも口での説明がメインで、待合室で書いてもらうアンケートはその補足程度のものだった。


 サッカーの試合で相手のスライディングを受けた際に、転んで右手を変な風に地面についてしまったと少年は説明した。紙に書かれた内容とほとんど変わらない。


「ふむ、転んで右手を変な風に……と。それではちょっと、患部を見せてもらえますか」


 少年は躊躇った様子を見せてから、おずおずと怪我をした方の手をこちらに差し出してきた。

 私が左手で差し出された手を受け取ると、逆の手で軽く患部に触れて状態を確認する。

 はっきりとしたことは言えないが、この腫れ具合を見る限りでは骨折しているだろう。


「……なるほど。ちょっとレントゲンを撮ってもらいましょう。部屋はあちらになります。案内をしてくれる人がいるはずなので」


 そう言って彼が入ってきたのとは反対方向にある扉を私が手で示すと、少年は再びはいと返事をしてから席を立ち、私が指し示した方へ向かった。


 自分以外に誰もいなくなった診察室で、私は一つ息をつく。

 学生時代には自分の世界に浸り続けてきたこの私が、ある意味客商売とも言える医師という職業を営んでいるのは、全くもって不思議な話だ。


 自分が医師であることに時々疑問を持つというようなことを先程述べたが、正直な所、この身は医師に向いていないとすら思っていた。患者さんの前ではこんなこと絶対に言えないが。

 しかしそれと同時に、私は今のこの仕事にやりがいを感じてもいた。


 そもそも人と話すのはそこまで得意ではないので、気疲れはもちろんある。

 だが、話すのは苦手でも、人の話を聞くのはむしろ好きな方だと自負している。

 それに、怪我が完治して喜ぶ患者さんの姿を見ることができるのは、至福とまではいかないもののそれなりに幸福な瞬間なのだ。


 至福とまではいかないとわざわざ言うのは、私にとってそれより幸福な時間が存在するからだ。

 そして、その最も幸福な時間が存在することを、私ははっきりと自覚している。

 ただ残念なのは、それは職場で得られるようなものではないということだ。


 ディスプレイから目を離し、患者さんの目に入らないようにその左側の目立たない位置に置いてある写真立てをふと見る。

 そこには以前この病院に通っていた別の甲斐少年と、私とのツーショットがこの病院の入り口を背にして写っている。彼の怪我が治癒した記念に、私が撮ったものだ。


 写真の中の少年は、私が今こうしてこの写真を診察室に飾っていることを知らない。

 私の想像の中で、少年はより精悍な顔つきになり、スーツを着て大人になっていく……。


 そんな益体もないことを想像していると、ディスプレイにレントゲン写真のファイルが送られてきた。

 私はそれを画面一杯に表示させると、注意深く観察しながら患者の少年が帰って来るのを待つ。


 甲斐という名前に釣られてちょっと思考脇道に逸れたが、ここからはまた、いつも通りの仕事に戻るだけだ。

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