第98話 夢の中のあの子
初めて足を踏み入れた手術室は、四方を白い壁に囲まれていた。
中にある作業台には器具や薬瓶、魔道具が沢山準備されていて、想像していたよりもずっと簡素で無機質な感じがする。
小瓶から漂ってきた強い薬草の香りに、いよいよその時が来たのだと私の中で緊張が高まっていく。
「ユミィ、これでいいかい?」
「あ、ありがとうございます」
シルビア様が異空間収納から出した花瓶に私から受け取った花束を美しく活けてくれた。
満足気に微笑んだシルビア様が私の背に手を添え促す。
「横になってごらん」
示された存在感のある白い手術台に横になる。
無機質な手術室の中で精彩を放つ色とりどりの花は、まるで私を見守ってくれているようで。
……そう思うとじんわりと胸が温かくなった。
作業台の上にある銀色の小さなベルをシルビア様が鳴らす。
リーンと綺麗な音が響いて周囲がキラキラと光り清澄な空気が室内に漂った。
「浄化の効果だけの古い魔道具なんだけど、真銀には魔を払う霊験があるからね」
どうやら私の為に験を担いでくれたらしい。
柔らかく笑った表情が私の緊張をほぐしてくれた。
「ユミィ、これをお守りに持っていてほしい」
横になった私の手にシルビア様が握らせてくれたのは、黒い石のついたペンダントだった。
「シルビア様……これは……?」
「以前に渡すと言っていた、私の魔法石だよ。最高の魔力を込めたから、ずいぶんと遅くなってしまったけどね。編紐は闇の精霊力で紡いでみたんだ」
「最初に、ユミィに渡したくてさ」と、シルビア様は照れた様に笑う。
漆黒の魔法石は時々光を反射して虹色に輝いていた。
「シルビア様……シルビア様、……ありがとうございます。……私、……これで、どんな事があっても大丈夫です。たとえ……」
たとえ……記憶を失ってしまっても――
言葉にできなかった気持ちは、シルビア様には伝わったようで。
「うん……そばに、いるからね……ずっと……」
「シルビア様……」
抱き締めてくれるシルビア様の温もりを感じて、私の目から止めどなく涙が溢れる。
シルビア様が私の顔の前にそっと手をかざす。その途端に、私はゆるやかな眠りの中に落ちていく。
意識が無くなる前に、何かがそっと唇に触れたような気がした。
真っ暗な闇の中に私は佇んでいた。ここは――
何も知らない、だけど誰よりも知ってる場所。
それなのに手探りで歩き出そうにも、私はどちらに行っていいのかわからなかった。
オロオロとする私は、迷子になったみたいに不安な気持ちに陥っていた。
「やっと会えたね。ユミィ」
鈴を鳴らしたような声に驚いて立ち止まる。
その声があまりにも懐かしくて胸が締め付けられるように切なくなる。
目を閉じ耳を澄ませていると、「ここにいるよ」と聞こえた。
暗闇の中ゆっくりと目を開けると私を見上げて佇む一人の少女がいた。
彼女の周りだけが明るく輝いて、彼女は私にとって希望の灯だったんだと気づく。
ああ、この子はずっとここにいたんだ。
あの頃と変わらぬ姿のまま、私の心の中に――
真っ黒なローブを着た黒髪の少女は穏やかな瞳で私を見つめていた。
「シルビア様――」
……どうして忘れていたんだろう……こんなに大きな存在なのに……
目の前のシルビア様は七歳の時の姿そのままで。
ユミィが迷ったら、私が見つけるからね――
いつだったか、森で迷ったシルビア様を見つけた時に彼女が言ってくれた言葉。
シルビア様は、その約束を守って私を見つけてくれたのね……
あの歌劇場で再び出会うまで、彼女がどれだけ苦心してくれたのか私は知らない……
「シルビア様……私、……私……」
私だけ大人の姿だから、この子は私の心の中だけにいるシルビア様なのだろう。
だからこんなことを言っても、仕方ないのかもしれないけれど……
「私……怪我を治すことを、選んでしまいました」
「うん。私もユミィの怪我、治ってほしいもの」
穏やかに笑うその顔が切なくて。
「だから、もう…………あなたのこと……忘れてしまうんです……」
絞り出した声は惨めなほど震えていた。
「あなたと、出会ったこと……一緒に……遊んだこと……あなたを――」
好きになったこと――
零れ落ちた涙が私の頬を濡らしていく。
自分でお別れすることを選んだのに……
泣くなんて卑怯なのに……
涙を止めることができなかった。
そんな私の手を、シルビア様の手が優しく包んでくれる。
その小さな手の温かさが愛しくて。
「私……やっぱり……怪我なんて治らなくても……いい……」
大きくなった声は震えて、悲鳴のように響いてしまう。
「……あなたを忘れるくらいなら……もう、二度と思い出せないんだったら……私っ……」
大切な……思い出っ……だからっ……
泣き伏せた私の背を撫でる小さな手が優しい。
「忘れてもいいよ……ユミィ……」
「シルビア様……」
「だってね、しるびーが、全部覚えてるもの」
そう言って見せてくれたのは、太陽のような笑みで。
「それにね!」と言ったシルビア様が、私の頬を両手で包む。
「これからは、ずっと、ず――っと、一緒にいられるでしょ?」
黒曜石の瞳はキラキラと星空のように輝いている。
「だから、そうしたらね、もう一度……」
顔を真っ赤にしたシルビア様は微笑んで。
「もう一度、私を、好きになってね」
はにかんだその表情があまりにも眩しくて。
その姿に見入った私は、涙を流すことさえ忘れていた。
「……うん!」
頷いた私も、子供の頃の姿に戻っていた。
私を抱える様に抱き締めてくれるシルビア様が、愛しむように頭を撫でてくれる。
「ユミィは、可愛いなぁ。……大好き……」
「シルビア様……」
耳に響いた声が嬉しくて顔を上げると、これ以上ないくらいに優しい笑みで見つめてくれる。
もう、夢の中でさえ彼女と会う事はないのだと思うと、目尻から大粒の涙が零れた。
私も――
その言葉が声になる前に、私の意識は光の雨の中に戻っていた。