第97話 手術の前に
鳥がさえずる声がして、羽ばたきが朝の静かな空気を震わせる。
ゆっくりと目を開けると、薄明るくなった黎明の空が窓の外に広がって、紫とオレンジの光の中に青い雲が浮かんでいるのが見えた。
そろそろ起きなくっちゃ……
そう思って人化した身を起こそうとすると、自分の胴に真っ白な腕が巻き付いていることに気づいた。
「……駄目、ユミィ……」
その声は耳の中で甘く響いて。
こ……これって…………!
一気に冴えた頭に、昨夜の記憶が蘇ってくる。
部屋の前で待っていたシルビア様。
うなじからほのかに香る薫衣草の香油の匂い。
重ねられた真っ白な手。
そうだ……私……
抱き締められている……それも、一糸まとわぬシルビア様に……
動揺してベッドから出ようと身じろぎした私に気づいたのか、シルビア様の腕が痛いくらいに絡みついてくる。
背中に押し付けられた豊かな膨らみを感じて。心臓が大きく跳ねた。
「………………起きちゃ、駄目」
囁く様な吐息は私のうなじを撫でるようにくすぐって。快感に抗えない耳がビクビクと勝手に動いた。
「シ……シ、シルビア様……お、起きて……?」
「もう少し……もう少しだけ……このまま……」
恥ずかしくて体が熱くて仕方ない。
私のじんわりと滲んだ汗がシルビア様の香油の匂いと混じって広がっていく。
もう……駄目……た…………耐えられない…………!
寝ている間に人化していたのに、私はまたすぐに獣化してしまう。
シルビア様の腕からすり抜けようとすればするほど、私を抱きしめる力は強くなっていく。
「そっ……そんなに……しがみ付かなくても……私は、いなくなりませんよぉ……っ!」
「……そんな事、わからないよ……」
首筋に顔を埋められ、そこから燃えるような熱が広がっていく。
その腕が、何かを怖がってる子供のようにも思える。
「シルビア様……何か……怖いものが、あるんですか……?」
私の問いかけにシルビア様は「何でもないよ」と呟いたけれど、抱き締める力は肯定するように強くなる。
シルビア様が怖れているものが何かはわからない。
だけど、何故かその答えが、私の失ってしまう記憶の中にある気がした。
私は抵抗するのを止め、朝のまどろみの中でシルビア様の素肌の熱を感じていたいと思った。
***
今日もシルビア様は私に何もさせず、薬草園に結界を張って穏やかに過ごさせてくれた。
フィーちゃんが子供達と作ってくれたサンドイッチやスープを四阿でいただいた後はゆっくり、のんびりとした時間を皆で過ごした。
急ごしらえの木剣でルネとダークちゃんが鍛錬したり、昨日のように追いかけっこを始めたり。
時々、遊び疲れたロシータちゃんやチェリーちゃんが結界の中に入って一緒にお昼寝していって。
風に流れる雲や、さやさやとそよぐ木々の歌を聞きながら、私は心身をゆっくりと休めることができた。
隣で眠るシルビア様の顔を見ながら、こんなに幸せでいいのかなと思っていると、繋いでいるシルビア様の手が握り返された気がして。
何も怖くないと思った。
***
あっという間に時間が過ぎて、夜になってしまった。
部屋の魔力硝子から見える空には、吸い込まれそうなほどに大きな満月が浮かんでいる。
ひと月前に、この月に照らされながらこの森へ来た時のことを思い出す。
あれから、ひと月しか経っていないのに、驚くほど色々な事があった。
何の変化も無かった平凡な日々が、たった一日で変わってしまったのよね……
皆という仲間ができて成長していく私を、何も言わずに見守っていてくれる月にシルビア様の面影が重なっていく。
不思議……きっと、これからもずっと……見守ってくれるのね……
雲の隙間から瞬く星と眩いばかりの月は、応えるように私に光を注いでくれる。
コンコンと、ドアをノックする音が聞こえる。
「ユミィ、時間だよ」
手術着代わりの簡素なワンピースに着替えた私は、シルビア様が差し出してくれた手にそっと手を重ねた。
シルビア様に手を引かれて待合室へと向かうと、廊下の先にカレンデュラさんのゴーレムが花束を持って佇んでいた。
「これ……もらっていいの?」
頷いたカレンデュラゴーレムは私に無言で青色とオレンジ色の花を押し付けると、浮遊の魔法で窓から外へと姿を消す。
「ありがとう!」
窓から顔を出してお礼を言うと、外で待っていたブルーベルゴーレムと手を繋いで、カレンデュラゴーレムは森の奥へと駆けて行った。
私に渡す為に廊下でわざわざ待っていてくれたのかな。このお花は励ましの意味があるのかもしれない。
深い森を思わせる花の香りを楽しみながら待合室に足を踏み入れると、もう寝る時間だというのに皆が集まってくれていた。
腕を組んだダークちゃんが、声を張り上げて真っ先に話しかけてくる。
「ご、ご主人様が失敗するわけないから、ボクは、心配なんかしないからなっ!」
そう言ってダークちゃんが私に向かって伸ばした手は震えていて、紫の花が握られていた。
横顔には涙の痕が薄っすらと見える。私のこと、心配してくれたのかな?
「ふふっ。ありがとう、ダークちゃん」
安らぐ香りの花を受け取った私に「フンッ!」と一瞥をくれると、ダークちゃんはシルビア様の影の中へと消えていく。どうやら、影の中からずっと私達を見守ってくれるみたいだ。嬉しいな。
ダークちゃんと入れ違いに姿を現したのは、チェリーちゃんを頭に載せたロシータちゃんだった。
「あのなぁ、ろしーたな、ゆみぃにあげる“でんせつ”のおはな、さがしにいったんだぞ……」
「“でんせつ”のお花?」
そう言った私に向かってロシータちゃんは首を横に振る。引き結んで震える唇が開くと同時に、大きな瞳からポロポロと涙が零れた。
「……でも、ろしーた……おはな、みつけられなかった……」
涙が止まらないロシータちゃんを抱き締めていると、フィーちゃんが私に「ロシータさん、とても頑張られたんですよ」と教えてくれる。
手術前の私に花を贈ろうと皆で決めると、ロシータちゃんはすぐさま屋敷を飛び出して行ったそうだ。
遠くの山へと向かったロシータちゃんは、その山にあるという回復効果の高い伝説の花を探そうとしたけれど、見つける事はできずに時間が過ぎてしまい、日が暮れるのに焦りながら先程やっと戻ってきたのだという。
言われてみると、ロシータちゃんのワンピースは端が破れたり泥が着いたりしてボロボロで。
その手の中には森に咲いている赤い花が握られていた。
私がお昼寝している間にそんなに頑張ってくれたことを思うと、嬉しいのに泣き出したいような気持ちがこみ上げて胸がいっぱいになる。
「ありがとう、ロシータちゃん……このお花、もらってもいいかな?」
頷いたロシータちゃんが、チェリーちゃんと一緒に赤色と桃色の花を一輪ずつ渡してくれる。
熱で萎れてしまったそれらの花はとても輝いて見えた。
「ゆみぃ……ろしーた、ここで、ゆみぃがだいじょうぶになる、おいのりしてるからな。なおったら、いっぱい、い~っぱい、あそぼうな!」
「きゅー。あしょぶー」
二人からもらった花は、ミルクとバニラが混じった様な幸せな香りがした。
「うん。ありがとうロシータちゃん、チェリーちゃん。治ったら、いっぱい遊んでね」
二人とも心配そうな顔をして口を引き結びながら、不安そうな表情を隠そうと頑張っていた。
私が二人を抱き締めると、ロシータちゃんの目から涙が零れ落ちていく。
「ろしーた、おねえさんだから……なかないぞ……!」
「うん。ありがとう。偉いよ、ロシータお姉ちゃん」
チェリーちゃんがロシータちゃんの涙を舐めると、ロシータちゃんは傍にいたフィーちゃんの後ろに隠れてしまう。
「フィーちゃん、ロシータちゃんたちのことよろしくね」
「ええ。任せてください。ユミィさん……私も、ユミィさんをお待ちしてますから……」
「ありがとう、私、頑張ってくるよ」
しっかりと頷いたフィーちゃんは微笑みながら黄緑色の花を渡してくれた。
私の代わりに家事を押しつけちゃってごめんね。
子供達のこと、頼んだよ。
……そんな言葉が思い浮かぶけど、私がフィーちゃんに一番言いたいのは――
ターコイズグリーンの髪をまとめているリボンが普段よりも少し曲がっている。
尖った耳先から首筋は青白いのに、目の端だけがほんのちょっと赤い。
「フィーちゃん……無理しないで。疲れた時は、誰かに頼ってね」
私が見てきたフィーちゃんは、いつだって皆が生活しやすいように気を配ってくれた。
お陰で毎日快適に生活できるんだけど、その裏には常にフィーちゃんの努力があることをわかってる。
頑張りすぎるフィーちゃんを、誰かが支えてくれれば……
私の気持ちが伝わったのかフィーちゃんは一瞬大きく目を見開くと、「私の方が励まされちゃいましたね」と言って微笑んで。ターコイズグリーンの髪を可愛く揺らしてお辞儀した。
「ありがとうございます、ユミィさん」
フィーちゃんが渡してくれた黄緑色の花からは、爽やかな柑橘のような香りがした。
手術室を兼ねた診察室の前にはルネが佇んでいて、その手のひらにはシルビアゴーレムが載っている。
「頑張れよ、ユミィ」
「うん」
素っ気ない言葉とは裏腹に力強く頭を撫でてくるルネの手はとても大きくて温かかった。
「ユミィを、お願いします」
「ええ。私の命にかえても手術を成功させます」
深く礼をしたルネに、シルビア様がしっかりと頷いた。
二人の目はとても真剣で、それが私の為なのだと思うと申し訳ない気持ちが湧き上がってきた。
私にそんな価値はないのに――
そんな言葉が出てきそうになるのをぐっとこらえる。
言葉にすることで、皆の献身を無駄にしたくなかった。
ルネの手のひらに載っていたシルビアゴーレムが、私の肩へと飛び移る。
「みんな、ありがとう。私、大丈夫だよ。手術が終わったら、沢山遊ぼうね!」
呼びかけた私に皆は頷いてくれて、勇気をもらうことができた。
私はシルビア様に手を引かれ、手術室へと足を踏み入れた。