第95話 精霊の木の下で
まだ暗い病室のベッドで目覚めると、隣のベッドではルネが静かに寝息を立てていた。
結局、あの後ここで眠ってしまったんだわ。もしかするとルネに気を使わせちゃったかな。
でも、久しぶりに姉弟一緒に過ごせて嬉しかったな。
すやすやと眠るルネを起こさない様に部屋を出て自室に戻り身支度を整える。
早起きできたから、朝食に食べられそうな果物を探しに行くのもいいかな。
着替えながら、昨日のことが頭に浮かんだ。
今までの私だったら、ルネの言い分を聞いて帰ってしまったかもしれない。
そうなったら、シルビア様とは離れ離れになってしまうのよね……
選択しなかった未来を想像するだけでも、胸がズキリと痛んで苦しくなる。
もし、そうなったら……私……
その時は、また自分の居場所を探せばいい……頭ではわかっているけれど、考えるだけで涙が込み上げてきそうだった。
みんな、そうやって生きているんだと思っていた。日々、生きていくうえで諦めなければいけないことなんて星の数より多いから……
……だけど、胸に生まれたこの感情は一体……何なんだろう……?
モヤモヤした気持ちを抱えながら自室を出て待合室へと向かう。
足を踏み入れた待合室には先客がいた。
「これでよしっ、っと」
キラキラした光が天井から床までを包んで、塵一つ無い空間に清澄な空気が広がっている。
浄化魔法で室内を綺麗にしていたカレンデュラさんは、私に気づくときまりが悪そうに髪をかき上げる。
朝早いせいか結ばれず後ろに流された髪は鮮やかな金盞花そのものの色をしていて、波打つように綺麗だった。
「おはようございますカレンデュラさん。お掃除ですか?」
「世話になったから、一応ね。ルー様が回復してきたから、アタシ達、午後にはここを出るのよ」
「ブルーベルさん、良くなったんですね。よかった……でも、ここを出て……一体、どちらへ?」
「シルビアに森番を命じられたから、森の奥に住処を移すのよ」
「そうだったんですね。……寂しくなります」
「なぁに言ってんのよ。しっかりおし」
カレンデュラさんはそう言い残して待合室を出て行く。
その後ろを、カレンデュラさんとブルーベルさんそっくりのゴーレム達が仲良く手を繋ぎトコトコと歩いていた。その姿を見て、ふとした疑問が口をついた。
「あの……カレンデュラさん……」
「何よ?」
「もし、カレンデュラさんが……何らかの理由でブルーベルさんと離れなければいけない状況になったら、どうしますか? ……もしも、のことなんですけど――」
こんなこと聞いたって、どうなるわけではないんだけど……
今まで色んな事に、自分の中で折り合いをつけてきた。
だけど、それができなくなったら……?
「“何らかの理由”とやらを解決して、さっさとルー様の元に戻るわよ。……でも、聞きたいのはそういうことじゃないんでしょ?」
私が頷くと、腕を組んだカレンデュラさんは不敵に笑う。
「アタシだったら、絶対に諦めはしないわ。追いかけて追いかけて、それこそ地獄の果てまでだって追いかける。命尽きるまでお傍を離れることなんてしない。嫌われても、望まれなくても、たとえ、ルー様が、他の誰かを愛していてもね!」
カレンデュラさんが言い切った言葉の衝撃で、全身の毛が逆立ち震える。
身を引く、受け入れる、譲る、とか、そういう選択肢はカレンデュラさんの中には存在しないのね。
それは、我儘なのかもしれないけれど。我儘になる事は、悪い事ではないのかも。
自分の気持ちに正直に、只々真っ直ぐに――
そんな風に生きているカレンデュラさんがとても眩しい。
そのことに何故か清々しくなって、笑みがこぼれる。
背を向け出口へと向かうカレンデュラさんに、私は呼びかけた。
「カレンデュラさん! たまに、遊びに行ってもいいですか?」
「…………たまに、ならね」
背を向け出口へと向かうカレンデュラさんが、とても輝いて見えた。
***
診療所から出て狼の姿に獣化しバスケットを首にかけると、まだ暗いけれど夜目がきいて周りがよく見える。
朝の爽やかな風の中に、初夏の花々のいい匂いが混ざり合って胸が躍る香りがした。
低木から零れ落ちる朝露をペロリと舐めると葉の裏から精霊ちゃんが現れて「おはよう」と言うように葉を揺すってくれる。朝露は清々しくてとても美味しいのだ。
目的地の薬草園の周囲には、木苺やプラム、桃など様々な果物が生っていて、森にかかっている魔術のせいか季節に関係なく収穫できるから有難い。
果物屋さんのものとは種類も味も違うから、食べ比べも楽しいしデザートやオヤツにピッタリなのよね。
薄明るい空の下、ぼんやりとした霧の中を歩いていると、まるでまだ夢を見ているみたいに思う。
そういえば、夢の中の思い出せない記憶も、霧で覆われてるみたいだった。
あの霧が晴れたら、そこに現れるのは私にとってどんな人なのかな……
手術の日が迫ってるから、きっともう思い出すこともなく忘れてしまうわよね……
お目当ての薬草園が近づいて来ると、その中心に人影が見えた。
あれ……?
「シルビア様……?」
薬草園の中に座っているのは、真っ白な寝着を着たままのシルビア様だった。
毎晩研究に忙しいシルビア様が、こんなに早起きするなんて珍しい。
「シルビア様……こんなに朝早くから、どうしたんですか?」
人化して近づいた私をシルビア様は幼子のように見上げた。
その顔がとてもあどけなくて。零れ落ちそうなほど大きな瞳は少し赤かった。
「昨日……眠れなくてさ……」
シルビア様は恥ずかしそうに笑うと、ゆっくりと歩き出した。
朝の薬草園を歩く寝着姿のシルビア様は、動き出してしまった絵画のように見える。
「あのっ……どうして、眠れなかったんですか?」
横に並んだ私は、シルビア様の顔を覗き込む。目が赤いだけで、顔色が悪いわけではなさそうだ。
だとしたら、何か、悩み事でもあるのかなぁ? 私にできることがあったら、役に立ちたいけれど。
そう考えていると、シルビア様が歩みを止めた。
いつの間にか、私達は精霊の木の下へとたどり着いていた。
精霊の木がそよいで葉を揺らす度に、小さな鈴を鳴らしたような不思議な音が辺りに響いていく。
「だって……とても……」
「とても……?」
「とても……嬉しかったから……」
花の蕾がほころんだように、シルビア様が笑う。
精霊の木を揺らした朝の風がシルビア様の白い頬を撫で長い黒髪がたなびく。
巫女のような清らかな美しさに私は目を瞠った。
「ユミィが、私の傍にいたいって言ってくれて……」
シルビア様の星空を写し取ったような瞳が、今は私だけを映している。そのことに胸が高鳴って。
「あのっ……私の方こそ嬉しかったです……ルネを説得していただいて、ありがとうございました」
私が頭を下げると、シルビア様が私の両手を握る。
握り合った手にシルビア様がそっと額を寄せる。
「あ……あのっ……シ、シルビア様……っ?」
手から伝わってきた熱が、私の顔を火照らせた。
「……よかった……」
「え……?」
「ユミィが、ここにいるって言ってくれて……よかった……」
「シルビア様……私……」
まるで祈るようなその仕草に、何故か涙が出そうなほど、胸が強く打たれた。
私も……ここに……シルビア様の傍に、いたいんです……
そう言いたいのに、恥ずかしさで言葉は喉につかえてしまう。
このまま……時が止まってしまえばいいのに……
シルビア様の細い肩を抱き締めてしまいたい。
私が何も言えないでいると、ゆっくりと顔を上げたシルビア様が、ポツリと呟いた。
「昨日……ね……」
「昨日?」
昨日のことを思い返してみる。
ルネについていたから、お仕事を皆に任せきりになってしまった……もしかして、何かあったのかな……?
私の考えとは裏腹に、シルビア様の頬が赤くなっていく。
「昨日は……ギュッと……しなかったでしょ?」
握られた手に力が込められて、燃えるように熱かった。
「きっ……昨日は色々と……立て込んでまして……」
昨夜すっかり眠ってしまった失態を思い出しながら、もしかして、シルビア様は部屋で待っていてくれたのかもしれないと気づく。
私がいつまで経っても部屋に戻らなかったから……まさか……一晩中、待っていた……とか?
シルビア様を見上げれば、その瞳はまるで懇願するように。
「……昨日のぶんも、今……して?」
薄紅色の瑞々しい唇は少し震えて。
潤んだ瞳に映された私が目を見開いている。
「え……で、でもっ……もうすぐみんな起きて――」
「…………駄目……?」
心臓がバクバクする音が聞こえて、頭の中が真っ白になっていくのに。
おねだりする様に言われ、私の心はアッサリと折れてしまう。
「……す……少しだけ……ですよ?」
シルビア様の手からほどけた手を、おそるおそる、ゆっくりとその背中へと回していく。
そっと抱きしめると、シルビア様の細い腕も私の背に回されていった。
温かくて……柔らかくて……
精霊の木の葉擦れの音の中で、お互いの鼓動が響き合って。
心地よい温もりと頬に触れる素肌の感触が心を満たしていく。
シルビア様の心臓の音……気持ちいいな……
薄く香る乳香と薫衣草が熱と一緒に風に溶けていって。
抱きしめられた私は、あっという間に獣化してしまった。
シルビア様は精霊の木の根元に腰掛けながら、獣化した私を優しく抱きしめて。
「今日の夜も……ギュッと……しようね……?」
高速でブンブンと揺れてしまう尻尾が恥ずかしくて、返事ができなくて。
私は狼言葉で「ク~ン……」と一鳴きした。